第八回「渋沢栄一と養育院(その一)」
松平定信(まつだいらさだのぶ)の七分積金(しちぶつみきん)は、東京のインフラ整備だけでなく、福祉の分野にも活用されています。
日本経済界の指導者であった渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、福祉事業の先駆け的存在でもありました。
渋沢が福祉事業に貢献するようになった原点は、母親でした。渋沢の母・えいは、慈悲深い女性で誰に対しても親切で、ハンセン病患者の面倒もみるほど優しい女性でした。
その後成長した渋沢は論語の仁愛思想を学び、福祉への思いをより一層強くしました。やがて幕末に渡仏すると、フランスの近代的な福祉施設や福祉制度に驚嘆します。また、生涯敬愛した定信の福祉政策や考え方にも影響を受けたものと思われます。
戊辰戦争で大きく荒廃した東京は、大幅に人口が減少したばかりでなく、市中に物乞いなどの窮民(きゅうみん)があふれていました。
明治5年(1872)にロシアの皇太子一行が来日することになると、このような状況を見せるのは国の恥辱となってしまうとの政府の思惑から、急きょ市中の窮民をどこかに収容しようとの案が出ました。とりあえず、旧加賀藩邸上屋敷跡に窮民240人が収容されました。これが、後に東洋一の福祉施設と称される「養育院」の始まりでした。
養育院の経費は共有金(七分積金)から支出されています。渋沢は、大蔵省退官後の明治7年に営繕会議所の頭取・共有金取締の嘱託となり、同9年に養育院の事務長を引き受け、その後同12年8月、院長に就任します。
▲養育院本院の碑(東京都板橋区)
文・中山義秀記念文学館 館長 植村美洋(当時)
広報しらかわ 令和3年(2021)8月号掲載
- 2024年7月9日
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