第七回「東京の恩人 松平定信」
今回は、定信(さだのぶ)の七分積金(しちぶつみきん)の遺産で行われた事業を紹介します。
明治になり文明開化が進むと、乗合馬車や人力車などの新しい交通機関が生まれ、江戸時代とは比較にならないほど往来が多くなりました。それに伴い道路の修繕や拡張が七分積金によって行われたのでした。
修繕や建設が必要なのは、道路だけではありません。東京中の橋・水道も同様でした。古い木造のため傷みが激しく、これも多額の費用をかけて修繕されました。
東京府は夜の街を明るくするため、瓦斯燈(がすとう)を設置することにしました。明治6年(1873)にフランス人技術者ペルグランを招聘(しょうへい)して工事が始まり、翌7年12月に京橋以南の銀座煉瓦(れんが)街に灯(とも)されました。8年には、京橋から万世橋(まんせいばし)までに100基、常盤橋(ときわばし)から浅草橋・元柳橋(もとなやぎばし)・両国広小路までに53基の瓦斯燈が設置されました。
明治5年に学制が発布されると、全国に学校ができはじめます。東京府内の96小区・郷村19小区ごとに一校ずつ小学校が設立されることになりました。
後に文部大臣となった森有礼(もりありのり)の発案で、商法講習所(後の一橋大学)がつくられます。経済と商業教育の重要性を認識していた渋沢栄一(しぶさわえいいち)も賛同しました。
東京府庁舎は幸町(さいわいちょう)(現在の日比谷)の郡山藩邸跡にありましたが、明治21年に麹町(こうじまち)有楽町への移転が決まり、22年から工事開始、5年の歳月をかけて27年に竣工(しゅんこう)しました。21年に誕生した東京市と、東京府の庁舎がひとつになり完成したのです。
▲東京市庁(国立国会図書館ウェブサイトより)
文・中山義秀記念文学館 館長 植村美洋(当時)
広報しらかわ 令和3年(2021)7月号掲載
- 2024年7月9日
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