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市長の手控え帖 No.180「小澤征爾が指揮した交響楽団」

市長の手控え帳

1月、コミネスで小林研一郎指揮による群馬交響楽団の演奏会が行われた。群響は、高崎市から生まれた地方オーケストラの草分け的存在。昭和初期、詩人萩原朔太郎が始めた『上毛マンドリン倶楽部』の団員が、戦後すぐに『高崎市民オーケストラ』を創設した。すぐプロになり、後年、群馬交響楽団に改称。大都市ならまだしも、当時15万弱の高崎を本拠地にした群響の歴史は苦難に満ちていた。

中心的役割を担ったのは、上毛マンドリンの歌手だった丸山勝廣。音楽に人生をかけると誓う。思いついたのが学校を回る「移動音楽教室」。とはいえ、誰もが生きるのに必死な時代。音楽への関心も少ない都市での経営は至難のこと。それでも楽器を背負い、リヤカーに乗せ、山から山へ、町から町へと回る。

徐々に軌道に乗る。丸山は指揮者を探し、桐朋学園の齋藤秀雄教授を訪ねる。「高崎に行けば指揮を振れる!」そこに教え子の若き小澤征爾がやって来る。丸山は「金は払えないが、食わすぐらいはできる」と歓迎する。小澤はぼろトラックに乗り、僻地の学校でタクトを振った。


移動音楽教室が評判をよぶ。1955年『ここに泉あり』として映画化され、大ヒット。だが依然として生活は苦しい。楽器を質に入れたり、チンドン屋で働いたり。子供たちは全く音楽に耳を傾けない…。重い足取りで帰りかける。

校門の前で待っていたひとりの女の子が、そっと一束の野の花を差し出す。「来てよかった。あんな子が一人でもいてくれるなら、どんな遠くでも行くよ」風雨に打たれ、炎天下の中旅は続く。

山奥の小学校。『フィガロの結婚、カルメン…』声ひとつ無く聴き入る子供たち。先生は「この子たちの殆どは、一生山の中で暮らします。もう生の演奏を聴くことはないでしょう」と礼を言う。満足し、山を下る団員の後ろから「さようなら~」そして『赤とんぼ』を合唱する子供たち。この声が団員の背中を押した。

群響が生きていくには、演奏のレベルアップと音楽愛好者の増が必要。群馬県を音楽モデル県にして貰おうと、文部省に陳情。映画に感動した役人の奔走もあり、全国で初めて指定された。次は音楽ホールの建設だ。新しく就任した市長と共に国と交渉し、補助を得ることに成功。同時に市民から寄附を募り、建設費の半分を賄った。1961年、憧れの群馬音楽センターが完成した。記念碑には「ときの高崎市民之を建つ」と刻まれている。


丸山への不満が表面化する。有名になったことへの嫉妬もあった。「N響に並ぶのではなく、県民に音楽を広めること」とする丸山。「優れたオーケストラにしたい」とする団員が衝突。32人のうち21人が退団。市長自ら事態収拾に乗り出す。その後、指揮者とコンサートマスターに実力者を迎え、見事に立て直した。

一徹な丸山に会った人は、その経歴や学歴に興味を持つ。これを予期してか「私は小学校しか出ていません」。相手が誰であろうと堂々と持論を述べ、体験を語る。誰もが高い見識とたくましい実行力に目を見張る。2003年には、NHKの『プロジェクトX~挑戦者たち~』で群響創生期のことが紹介された。

小澤征爾は"世界のオザワ"になっても丸山との交流を続けた。「生涯自分の感動した音楽は、ベルリンフィルでもウィーンフィルでもない。1992年3月31日、群馬交響楽団が行った演奏である」この日丸山勝廣の楽団葬が行われた。バッハのアリアを指揮する小澤の目に、とめどなく涙が流れた。

コロナ禍の折、文化芸術はいち早く不要不急なものとされた。予防のためにはやむを得ないことだったとしても、私には、図らずも日本人の文化的浅薄さが露呈したように思えた。生涯、音楽の力の大きさを訴えた丸山は何と言っただろう。

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