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市長の手控え帖 No.179「台湾総統が尊敬した"日本人"」

市長の手控え帳

台湾の新総統に頼清徳が就任した。民進党としては3期連続だが得票率は40%。立法院でも過半数を取れず、苦しい政権運営になるだろう。だが頼は逆境に強い。台湾北部の貧しい炭鉱労働者の家に生まれ、生後百日で父を亡くす。母は炭鉱で真黒になり働く。母は頼を医師にさせたかった。息子はひたすら勉学に励む。

難関の台湾大・台南の成功大医学部で学ぶ。成功大附属病院の内科医となり、腕の良さと実直な人柄で慕われた。頼は初めての直接投票による台湾省長選挙で、医師会を代表し民進党候補を応援した。これが政治との出会いとなった。貧困をなくし、社会正義を実現したいとの溢れる思いが政界へ向かわせた。

2010年、台南市長に就任。徹底した現場主義で諸問題を解決する。強い信念と実行力が中央政界の目にとまる。その後行政院長(首相)から副総統に昇格。頼は台湾きっての親日家。誠実・勤勉・奉仕などの日本的精神が刻まれている。2014年3月13日。頼市長はある人の「命日」にあたるこの日を、台南市の「正義と勇気の記念日」に制定した。

その人は湯(坂井)徳章。父は熊本出身の警察官坂井徳蔵、母は台南生まれの湯玉。徳蔵は強い正義感と反骨精神を持つ「肥後もっこす」。現地人の抵抗に手を焼く台湾に赴いた。ある時楚々とした女性にひかれる。当時、日本人と台湾人の結婚は許されなかった。だが、出世や周りの目を気にする男ではなかった。

1915年、徳章8歳。数百人の暴徒が派出所を襲った。事前に察知した徳蔵は『徳章、声は絶対出すな。玉、子供たちを頼む』と裏口へ逃がした。激しい攻防の末落命。徳章一家は困窮する。玉は布製ボタンづくりで生計をたてる。

金のかからない師範学校に入学したが、2年で退学。製糖工場で働きながら学び、父と同じ20歳で警察官になる。精勤にして優秀。順調に出世する。だが、有力な日本人のひき逃げに手心を加えず左遷される。こんな組織にいても希望はない。台湾人の人権を守り、法の下の平等を実現するには外へ飛び出すしかない。

文筆家で名をなしている叔父の又蔵を頼り東京に向かう。目指したのは超難関の高等文官試験司法科。中央大学の聴講生になり猛勉強。それは鬼気迫るものだった。抜群の記憶力と負けん気は奇跡を呼んだ。昭和16年10月、34歳で合格。その後行政科にも合格。さあ台湾に帰ろう!昭和18年7月、船上の人となった。

9月、台南市内に弁護士事務所を構えた。時代は大きく動く。日本は敗れた。徳章は蒋介石の「台湾同胞よ、祖国の胸に帰れ」を警戒した。教育水準や道徳心の低劣な大陸人が入ってきたら騒動になる。案の定、枢要なポストを独占。米・砂糖・塩は全て大陸に運ぶ。激しいインフレが起きる。不満が鬱積していた。

1947年2月27日、台北市で闇タバコを売っていた女性に役人が暴行を加えた。群衆の怒りは爆発し、一挙に全土に広がる。"2・28事件"の勃発だ。官庁や警察署が襲われる。蒋介石は秘かに精鋭軍を上陸させ、各地で虐殺が起きた。知識人を中心に3万人が犠牲となる。

台南でも大学生たちが決起する。徳章は「正規軍が投入されれば殺戮になる。はやるな」と説得。若者も従った。指導者は次々に逮捕される。とりわけ「日本人弁護士」への追及は厳しかった。拷問であばら骨が折れた。彼らは反乱者の名簿を欲しがったが、頑として口を割らなかった。「死ぬのは私一人でいい」

3月13日、公園に引きずり出される。手を縛り目隠ししようとした兵士に『そんなことは必要ない。私には大和魂の血が流れている』と一喝した。最期に日本語で『台湾人、バンザーイ』と叫んだ。今、徳章は貧窮の身から台湾トップになった頼清徳を称えていることだろう。

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