市長の手控え帖 No.170「森進一と永山則夫」
昭和31年の経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。高度経済成長が始まる。大都市圏は多くの労働者を求めた。この時の高校進学率は51%。全国から膨大な中学卒業生が大都市に向かった。職安の係員や教師に引率され、15歳の少年少女は上野駅や大阪駅に到着する。
駅には雇用主が幟や旗を掲げ待っている。詰襟やセーラー服の集団は各職場に散っていく。「集団就職」の光景だ。映画『ALWAYS 三丁目の夕日』。青森県から来た女学生が上野駅17番線ホームに降り立つ。迎えたのは鈴木オートの社長。ダブルのスーツに中折れ帽。一見紳士のようだが、乗ってきたのはぼろぼろのオート三輪車。職場も小さな修理工場。イメージとの違いに愕然とする。
集団就職の背景には農村の過剰人口問題があった。農家の次三男は他の職業に就くか、婿入りを選択するしかない。これに敗戦前後からの帰郷者が拍車をかけた。加えて経済活動の拡大により、金属機械や繊維工業を中心に大量生産が始まり、多くの単純労働者を必要とした。地方から大都市への"民族移動 "が起きた。
花形産業への就職者の40%以上が地元大都市の出身者だった。町工場や個人商店等は、大手企業の設備投資の急拡大の影響を受け、深刻な人手不足に陥った。そこを地方出身者が埋めた。大都市組を優先採用する環境の中で、職業安定所と中学校が、地方組を人気のない職種や零細事業所に送り込む役割を担った。
集団就職者は"金の卵"。それは雇用者からの視点だった。労働環境は劣悪。長時間労働に低賃金、粗末な食事。金のヒナになるには高い壁があった。石にかじりつき出世し、独立できたのはほんの一握り。多くは仲間で情報交換し、割のいい仕事を探し離転職を繰り返した。
急速な経済成長は産業構造の変化を促し、様々な職業を生んだ。彼らの流動性の高さが好都合だった。程なく日本は、世界でも稀な"総中流社会"を迎えたが、金の卵が低所得者層から抜け出すのは難しかった。とはいえ、集団就職者なくして奇跡的な経済発展はなかった。
離転職はこらえ性のない若者の浮ついた行動だったのだろうか。都会の誘惑や孤独から挫折する者もいた。だが大半は、既に就職先を決められ、割に合わない労働に希望を見出せない若者たちの抵抗だったように思える。井沢八郎の『ああ上野駅』は希望と望郷の歌。これに力を得た人も、悄然と聞いた人もいるだろう。
二人の明暗がくっきり分かれた。1963年、鹿児島から大阪に出た森内一寛。母子家庭に育ち、新聞配達で家計を助けた。寿司職人を目指したが1か月で辞める。故郷で食堂の皿洗い。その後大阪と東京とを往復する。17回も転職。幸運にもフジテレビの「リズム歌合戦」で優勝。18歳のしゃがれ声の若者は『女のためいき』でデビュー。"森進一"は歌謡界を代表する歌手となった。
1965年、青森から東京に出た永山則夫。家庭は崩壊し極貧の暮らし。渋谷の果物店で働く。ある時、中学時代の窃盗事件が知られ店を飛び出す。鉄工所、米屋、牛乳屋…。最初は必死に働くが、人と馴染めず逃げ出す。常に責められるとの強迫観念に苛まれた。絶望や孤独。米軍基地から拳銃を盗む。1月足らずで4人を殺害。19歳だった。
獄中で読書に目覚める。難解な哲学や文学書を読破する。1971年に発表された『無知の涙』はベストセラーになる。「貧乏と無知が事件を起こした。貧乏こそ悪の温床である…」裁判でも貧困に隠された深刻な問題は見逃された。
1997年に処刑。"永山的犯罪"は今も続いている。個人個人が分断され、永山少年が抱えた孤独や生きづらさという心の闇は、より深くなっている。貧困と孤独が社会を蝕むことを恐れるべきだ。
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