市長の手控え帖 No.169「テロと民主主義」
タモリは昨年末のテレビで、来年は「新しい戦前になるんじゃないんですかね」と話していた。言い得て妙である。安倍元首相の殺害や時代の閉塞さが戦前に似てきたと捉えたのだろう。大正から昭和にかけてテロの嵐が吹き荒れた。
1921年、安田財閥創設者の安田善次郎、本格的な政党政治を確立した原敬首相が刺殺。1930年、ロンドン軍縮条約を締結した濱口雄幸首相が狙撃され、翌年死去。1932年、前蔵相井上準之助と、三井合名会社理事長團琢磨が極右主義者により射殺。普通選挙の消極的姿勢や経済不況への不満があった。
太平洋戦争への破滅の扉を開いたのは5・15事件。1932年5月15日の夕刻。海軍若手将校らと右翼団体が首相官邸、政党本部、日本銀行などを襲った。"話せば分かる…問答無用"と犬養首相を射殺。彼らは犬養を標的にしたのではなく、日本の中枢を転覆しようと考えた。計画はすぐに鎮圧されたが武力による反乱に国民は震撼した。しかし失業者の増加、農村の苦境と子女の身売り、財閥への富の集中。怨嗟の声が世に満ちていた。
立憲政友会も立憲民政党もその声を汲みとれない。相手の非を攻撃するだけの泥試合。軍も不満を募らせていた。大正デモクラシーと軍縮の中で、軍人は肩身の狭い思いをしていた。また第一次世界大戦以降、国家総力戦を迎えているのに、政府は戦艦の量を制限する軍縮条約を結んだ。軍の最高指揮官たる天皇の意思を無視した行為と激しく攻撃した。
この事件はその後の統治や国民の心理に大きな影響を与えた。犬養の後任は憲政の常道から政友会から選ぶのが慣例。だが世間は憲政の神様の死を悼む一方、政友会を強く批判していた。明治憲法には内閣総理大臣の規定がなく、実質は天皇の命を受けた元老が決めていた。時の元老は西園寺公望ただ一人。
リベラルな西園寺は政党政治を容認していたが、政友会の政権担当能力に疑問を持った。さらに党内に人材がいないと判断。熟慮の末、海軍大将斎藤実を指名。以降敗戦まで政党出身者が首相になることはなかった。大隈重信や板垣退助が政党をつくり、原敬が秘術を尽くして軍・官僚と闘い政権を獲得した。その貴重な遺産を政党人自ら壊してしまった。
政党への不満を吸収するように軍部が台頭してくる。巧妙に「富の再分配」「特権階級打破」など社会主義的主張を盛り込む。次第に軍部への期待が高まる。
内乱罪の首謀者は死刑。ところが判決では禁固15年に減刑された。既に戦死した者を首謀者とし、他を従犯として決着させた。恩赦もあり5年弱で放免された。軍としての規律を保持しなかったことが、後の2・26事件につながった。
それ以上に大きかったのは国民の助命嘆願だった。テロは許し難い。だが彼らは国民救済のために決起した。その動機は純粋ではないか!義挙だ。老婆が傍聴席から"裁判長様、この青年を無罪にしてください"と涙声で訴えた。新聞記者も"涙を流しながら書いている"と報道する。同情の声が日増しに強くなる。左翼政党の中にも支持者が出る。
日本人には「動機が正しければ許される」という動機至純論を受容する素地がある。忠臣蔵は無念の死を遂げた主君の恨みを晴らす復讐劇。時代を超えて私たちの感性に訴える。だが国の命運を左右する事態では、雰囲気や感情に流されず、極力理性や知性を保つべきだ。
私たちが学ぶべきは、民主主義の成熟には時間がかかることを認識し、忍耐強く見守ること。青年将校に共感するのではなく、社会の病理を治し、多様な民意の包摂と丁寧な合意の形成を図る健全な政党政治を支えることであろう。テロが民主主義の危機を招くのではなく、民主主義の危機がテロを招くのだ。
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