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市長の手控え帖 No.165「満州の悲劇が教えるもの」

市長の手控え帳

映画『ラーゲリより愛を込めて』を観た。日本人捕虜収容所の苛烈な環境と、常に明るく振舞い仲間を勇気づけた人物を描いている。昭和20年2月。クリミア半島のヤルタでルーズベルト、スターリン、チャーチルが会談した。ドイツは敗北寸前。日本は敗色濃厚。戦後のドイツ処理や国際連合設立等を協議した。

米ソの密約があった。大統領は対日勝利のためソ連の参戦を促す。書記長は日露戦争で失った領土の回復を求めた。参戦はドイツ降伏の3か月後。病で精気のない大統領に対し書記長は精悍そのもの。交渉は終始スターリンが主導した。獰猛で狡猾な独裁者はほくそ笑む。日本とは中立条約を結んでおり、参戦は違法行為。だが権力の亡者は毫も意に介さない。

8月9日未明。満州・南樺太・千島列島に襲いかかる。モスクワ駐在武官は、事前にソ連軍移動の報を送っていた。軍中枢はこれを握りつぶした上に、ソ連に停戦交渉の仲介を頼んでいた。喜劇だ!精強を誇った関東軍は南方に兵をさかれ弱体化していた。一部は頑強に抵抗したが、圧倒的火力の前になす術もなかった。

 

捕虜は約60万人。極東から中央アジアまで広く収容された。粗末な木造バラックに蚕棚のようなベッド。ストーブはあっても室内は零下。食事は日に350gの黒パンと雑穀入りのスープのみ。森林伐採、鉄道建設、炭鉱採掘に従事。飢餓・極寒・重労働で6万人が亡くなる。

母の兄は98歳。ハルビンの東牡丹江の重砲隊に所属。沿海州から攻撃するソ連軍を迎え撃つ。退却のさなか捕らえられ、ハバロフスクの収容所に移送された。急性肺炎を患っており死を覚悟した。朝目を覚ますと何人も息絶えていた。ロシア兵は衣服を剥ぎ取り原野に投げ捨てる!死は常にそこにあった。愛想のいい女性軍医の手当ても良く、幸い命をとりとめた。22年11月、やせ細り帰国した。

抑留は民間人も連行した点で国際法に違反。戦闘終了後、速やかに将兵を帰国させるとしたポツダム宣言にも反している。"ロシア帝国"に法を説いても無駄。今の無法ぶりにそれが表れている。抑留者家族の嘆願に米国は動く。

21年12月、米ソ協定で毎月5万人を送還すると決めた。だが貴重な労働力を簡単には返さない。26年9月、サンフランシスコ平和条約が結ばれたがソ連は署名せず、帰還がさらに遅れた。全員が帰国したのは、日ソ共同宣言がなされた31年。敗戦から既に11年がたっていた。

 

他にも悲劇があった。昭和の初め、農村は経済恐慌により窮乏していた。農業指導者は、農民を満州に入植させ救済を図ろうとした。関東軍は屯田兵による対ソ防衛の拠点にしようとした。国は大々的に開拓団を募った。長野・山形・福島県等から27万人が満州に渡った。開拓団の多くはソ連国境に入植した。

日ソ開戦直前に成年男子が根こそぎ動員された。そこにソ連が攻撃し、現地民も襲撃する。頼みの関東軍は早々に国境周辺の防衛を放棄した。哀れにも残された女性、子供らは棄民となる。前途を悲観し集団自決が相次ぐ。苦難の逃避行でばたばた亡くなる。残留孤児も多かった。ここで8万人もの命が失われた。

8月11日、ソ連は南樺太に侵攻する。15日を過ぎても攻撃の手を緩めない。20日、真岡に艦砲射撃し上陸。街は阿鼻叫喚。郵便電話局長は局員に退去を命ずる。だが12人の女性電話交換手は、職責を果たそうと残る。弾丸の飛ぶ中「皆さん、これが最後です。さようなら…」との交信の後、青酸カリで命を絶った。

国際政治では法や規範よりも力が優先する。"ならず者"国家を制御するには安定した国際秩序が欠かせない。そして政治主導のもと外交・安全保障政策を強化する。我々は、満州の悲劇から「国を守るとは何か」を学ばなければならない。

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