市長の手控え帖 No.162「撤回された国替え」
衆議院の区割りが変更された。福島や山口、和歌山など10県で選挙区が一つ減り、東京都や神奈川県などで10区増える。一票の格差を2倍以内にするためとはいえ、余りに大都市に偏っている。これでは地方の声が届きにくくなる。果たして人口だけの配分でいいのか。憲法上の課題や中選挙区制も視野に入れ、十分検討して戴きたい。苦労を重ね地盤を培ってきた議員には辛い「国替え」となる。
江戸幕府成立当初は、権力基盤を強化するため、頻繁に改易(領地没収)や国替えが行われた。幕府の権威が確立した6代将軍の頃から、改易は大幅に減少。大名領はほぼ固定化した。外様大名はその家の財産とみなされ、よほどの不祥事がない限り国替えはなかった。
一方、譜代や親藩大名の領地は、家の財産でなく「任務の地」であり国替えは続いた。理由は、幕府要職への就任、懲罰、藩主の能力、そして情実。国替えは1対1とは限らない。「三方国替え」も10回を超える。そのうち白河藩は3回も絡んでいる。最初は1649年、2度目は1741年。共に、原因は他藩にあった。
3度目は、丁度200年前の1823年。白河藩主松平定永が桑名藩へ。桑名藩主松平忠尭が忍藩へ。忍藩主阿部正権が白河藩へ。白河市・桑名市・行田市はこの縁で姉妹都市になっている。
理由は諸説ある。房総海岸防備にあたった白河藩の負担は大きく、周辺への移封を希望。いくつかの領地の打診に難色を示し、桑名に移されたとするもの。白河松平家が祖父の地の桑名を望んだとするもの(父定信の威光が働いたか?)。忍藩主は病弱なうえに、家臣団の騒動もあり治政が懸念されたとするもの。とばっちりを食ったのは桑名藩だった。
譜代や親藩はいかなる理由にせよ、幕府の命令は拒否できない。拒否すれば幕府の屋台骨が揺らぐ。江戸時代を通して、唯一撤回されたことがある。1840年、三方国替えが発令された。川越藩松平家が庄内藩へ。庄内藩酒井家が越後長岡藩へ。長岡藩牧野家が川越藩へ。
火元は松平家。かつて白河藩主だった直矩は"引越し大名"と呼ばれた。度重なる転封で財政は火の車。将軍家斉の子斉省を養子に迎える。生母のいる大奥を通し、庄内藩への国替えを再三願い出た。大御所となっても実権を持つ家斉は、老中水野忠邦に承認を命じた。明らかな情実。松平家は万歳。酒井・牧野家は晴天の霹靂。喜悦と落胆の中、準備に入った。
庄内藩の祖は徳川四天王の一人、酒井忠次。1622年、孫忠勝が入封以来ずっと治めてきた。表高14万石だが、肥沃な庄内平野からは20万石の実高があった。北前船で栄える酒田港も有していた。藩と領民には信頼関係が醸成されていた。飢饉の折には藩から米やお金が支給され、一人の餓死者も出なかった。
噂では松平家の取立ては厳しいという。これは大変!領民が立ち上がる。5万人もの反対集会を開く。"百姓といえども二君に仕えず"の旗が翻る。決死の覚悟で10人、20人と江戸に向かう。老中ら幕閣要人が駕籠で登城する途中、"おらが殿様の善政"を讃える訴状を提出。
一方で、仙台伊達家、秋田佐竹家、米沢上杉家ら東北諸藩に愁訴。伊達ら有力外様大名は「伺書」という形で、道理のない国替えに異議を申し立てた。忠邦は窮した。幕府の威信にかけて撤回はできない。といって国替えの名分もない。事態は急転回する。家斉に続き斉省も死亡。12代将軍家慶は領民の抗議、外様大名の詰問に衝撃を受けていた。
国替え中止の聖断が下る。最後まで抵抗した忠邦は、天保の改革の失敗や過去の不正を問われ、隠居・蟄居を命じられる。さらに減封の上、浜松から山形に移された。これ以降忠邦が憂慮した通り幕府の権威は失墜し、自壊の道をたどった。
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