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市長の手控え帖 No.159「遥かなるハルビン交響楽団」

市長の手控え帳

 

6月5日。白河市コミネス交響楽団の定期演奏会が開催された。10代から70代までの91人の団員が『カルメン』や『新世界』等を堂々と演奏。優しく、力強いハーモニーに満員の聴衆は酔った。コミネスの整備と共に、市民交響楽団設立の準備が始まる。その道のりは平坦ではなかった。組織は、指揮者は、資金は…。だが設立に携わった方々には志があった。一つ一つ峠を越え実現に至った。
平成28年10月。フランスのトゥール市で、第5回日仏自治体交流会議が行われた。パリから南西に240キロメートル。ロワール川の渓谷に点在する古城とその周辺は世界遺産。息を呑むほど美しいステンドグラスの大聖堂。中世の雰囲気が残る街並み。時間がゆっくり流れていく。
歓迎の晩餐会。市民オーケストラの演奏が始まる。クラシックからシャンソンまで。最後の曲は『さくら  さくら』。これぞ最高のもてなし!自分たちの街に誇りを持ち、小さな都市に、あたり前のようにオーケストラがある。フランスが文化大国たるゆえんだ。白河にもこれを創れないだろうか…。この想いが叶った。
19C末。帝政ロシアがウラジオストクまでシベリア鉄道を延ばすため、清朝から鉄道敷設権を得た。ハルビンは、満州北部を東西に貫く東清鉄道本線と、南の大連に向かう支線の分岐点にあった。ハルビンはロシア人が作った街。ロシア人といっても帝国内にいる者の総称であり、ウクライナ人・ポーランド人・ユダヤ人等も多かった。そこに日本人・漢人・朝鮮人らが集い国際都市になる。
1908年。娯楽のためロシア人が中心となり「東清鉄道交響楽団」が創立された。ロシア革命時には、赤化を嫌う帝政派の白系ロシア人が多数逃げこんできた。日本への亡命者もいた。巨人のエース、スタルヒン。神戸で高級洋菓子店を創ったモロゾフ。横綱大鵬の父ら。
白系ロシア人がハルビンの主流になった。社会的地位の高い者が多く、文化や芸術にも造詣が深い。一流の音楽家もいた。ハルビンの音楽家は度々来日し、草創期の日本クラシック界に大きな影響を与えた。大正14年。歌舞伎座で開催された「日露交歓交響管弦楽演奏会」では日本人演奏家とともに参加した。
指揮者は山田耕作と近衛秀麿。日本人が生で聴いた初めてのオーケストラ演奏だった。ハルビン楽団員の中に、NHK交響楽団の前身となる楽団の指揮者となり、日本人音楽家を育てた者もいた。
加藤登紀子はハルビン生まれ。父、幸四郎は、ロシアの専門家を育成するためのハルビン学院を出て満鉄に就職。"命のビザ"で知られる外交官杉原千畝も同窓だった。ハルビンには指揮者メッテルや、ステーキでもおなじみの「歌う俳優」フョードル・シャリアピンも訪れた。母、淑子は昭和10年、シャリアピンのコンサートにいたく感激したと述べている。
だが白系ロシア人の音楽家は、ソ連の影響が強まると離散していく。解団の危機を幸四郎らが救った。会員を募り、会費制にした。不足分は満州国を支配する関東軍が資金を提供。昭和11年。装いも新たに白系ロシア人を中心とする「ハルビン交響楽団」が設立された。
93歳まで現役指揮者だった朝比奈隆。京大音楽部の指導者になったメッテルに憧れ入学。師の薫陶を得てプロを目指す。戦争末期ハルビン響で指揮を執った。団員に、後にベルリンフィルのバイオリン主席奏者を務めたヘルムート・シュテルンがいた。ユダヤ人一家は海外を転々とし、苦難の末ハルビンのユダヤ人共同体に辿り着く。入団時16歳だった。
ソ連の満州侵攻。命の危機にあった朝比奈一家をかくまったのは朝鮮人の団員だった。50年後、シュテルンと朝比奈はハルビンで感動の再会を果たした。音楽は国境や人種、そして恩讐をも越える。

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