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市長の手控え帖 No.155「大関への道」

市長の手控え帳

 

3月に遡る。ロシアのウクライナ侵略。コロナの収束も見えない。昨年に続く地震。重苦しい空気を吹き払う慶事があった。只見高校が21世紀枠で春の選抜野球大会に出場した。過疎化が進む地域の小規模校。創意工夫で豪雪地帯のハンディを乗り越えてきた等の理由による。只見町は会津最奥の地。電源開発に沸いた時期もあったが今は人口4千人ほどに。
小さな町の小さな高校。町民や行政と一体となり廃校の危機を乗り越えてきた。15人の部員は体育館を共同使用し、駐輪場も練習場にした。私立の強豪に破れたが、甲子園に爽やかな一陣の風が吹きぬけた。野球を愛し、故郷を愛する若者たち。高校野球の原点がここにある。
福島市出身の若隆景が優勝した。新関脇では双葉山以来86年、本県では相馬市出身の栃東以来50年振りの快挙。昭和47年1月の千秋楽。私は国技館の最後列にいた。土俵は上位陣の不振や休場で大荒れ。小兵栃東の相手は大関清國。低く当たり、左を差し上手を引く。機を見ての出し投げが見事に決まった。あの一番は館内の興奮と共に心に焼きついている。
180センチメートル、131キログラム。精悍な顔立ち。若隆景は幕内平均より30キログラムも軽い。だが肩や脚部の筋肉は隆々。ここ数場所で急速に力をつけた。低く鋭い立ち合い。相手の肘を外側から絞るように押しあげる"おっつけ"は強烈。大型力士も浮きあがる。それを強くしなやかな足腰が支える。巧さにパワーがついてきた。
花道の奥。涙ぐんで迎えたのは、付き人で長兄の若隆元。次兄は前頭の若元春。親方は三兄弟に「三本の矢」の逸話で有名な毛利元就の子供の名をつけた。兄弟は競いあう。最も体の小さい末弟は、厳しい稽古を積む。過去の軽量横綱の取り口を研究し、自分の型を作った。
解説者、北の富士は「一気に強くなってきた頃の千代の富士に似てきた」と言う。それまでの千代の富士は、小さな体で力任せに振り回していた。脱臼も多く低迷していたが、ある時期変身した。低く鋭い出足。右前みつに左上手を浅く引き、土俵の外に一直線。攻めていれば怪我はない。わずか一年で関脇から横綱に駆け登った。並外れた稽古量。鋼の体と不屈の精神で一時代を築いた。
決定戦、巨漢高安の寄りに土俵際につまる。絶体絶命!だが膝に余裕があった。沈みこんで上手を引き、土俵伝いに回り投げをうつ。この圧力なら耐えられる。鍛えた体が自然に反応したのだろう。
栃若対決に心が踊った。多彩な技を繰り出す粘りの栃錦。胸を合わせ投げ飛ばす力の若乃花。マムシと荒法師。小兵同士の攻防戦はまさに死闘。水入りは何度もある。大銀杏が切れざんばら髪になったことも。主役には脇役が欠かせない。この頃福島県出身の名力士がいた。
信夫山は伊達市保原の出身。体重は100キログラムそこそこ。鋭い出足からもろ差しになり一気に寄る。"土俵の砂に二本のレール跡が残る"。6度の技能賞に輝き関脇に昇った。同い年でいわき市出身の時津山がいた。恵まれた体格で平幕全勝優勝。大関目前だったが、投げにこだわり過ぎ、気分にムラがあった。
栃東は栃錦に鍛えられた。終始頭をあげずくらいつく相撲で関脇になる。殊勲賞4回、技能賞6回。技能派大関の声もかかったが怪我で果たせなかった。望みは息子の2代目栃東が達成した。本市東出身の斉須。昭和58年、長身からの突っ張りと寄りで前頭2枚目まで昇った。あの頃の地元の盛り上がりはすごかった。
5月場所。前半の若隆景は精彩を欠いた。勝とうとする余り体が動かない。相手も弱点をついてくる。中日で3勝5敗。ここで吹っ切れたか、本来の相撲に戻る。おっつけが冴え大関陣を撃破。二桁には届かなかったが、苦しい場所を乗り切った。大関への道は確実に開けてきた。

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