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市長の手控え帖 No.151「ふるさとへの想い」

市長の手控え帳

 

今井珠泉先生が本市初の名誉市民になられた。「凡人だから努力なくして生き残れない」。刻苦勉励。細く険しい道を歩き続けた。内閣総理大臣賞を始め多くの賞に輝いた画壇の長老。「どんな栄誉より、故郷からの顕彰が嬉しい」と顔をほころばせていた。若い頃は帰省しなかった。故郷のぬくもりに甘え、画業への覚悟が揺らいでしまうと。この日は、白河への想いが一挙に溢れ出たようだ。
故郷…。何と懐かしく温かい響きだろう。国民に最も愛されている唱歌は『故郷』。"兎追いしかの山 小鮒釣しかの川"。平易な詩と美しい旋律は郷愁を誘う。大正3年国定教科書に載り、今日まで歌い継がれている。ハワイやブラジルの移民は、遥かな故郷を偲ぶ。原発事故で故郷を追われた人は、傷ついた心を癒す。
これほど日本人の心の琴線に触れる歌はない。第2の国歌とも呼ばれる。唱歌は明治の末「美感を養い徳性の涵養に資するため」文部省が定めた。学校という公の機関で、繰り返し歌われたことにより、"ふるさと"のイメージが育まれ、固定化してきたといえる。歌の力は強い。
近代国家を形成し維持するには、憲法・官僚・教育等の制度に加え、誰もが想起する国民共通の精神的象徴が必要だった。何がいい?故郷の美しい情景を歌にすればいい!山里で育った者はセピア色した風景を思い出し、都会生まれの人は地方のイメージを思い描く。
何年か前、八丈島で「八丈小島忘れじの碑」の除幕式があった。生活の不便さから、八丈小島の全員が八丈島に移住。碑は島を臨む浜辺に建てられた。目の前には広々とした青い海。島民は涙を流し「兎追いし…」と歌う。『故郷』は歌詞の内容を遥かに超えた望郷歌として、日本人の胸に深く刻まれている。
愛郷心を愛国心に編成することが近代化だとすれば、この歌は見事にその役割を果たしたといえる。詞の中で最も心が動くのは"こころざしをはたして いつの日にか帰らん"。いずれ望みを叶えて帰郷する決意を込めたものと思っていた。が、違うようだ。これは"いつまでも帰れない"憂愁の歌かもしれない…。
大正初期は重化学工業が急速に発展し、多くの人が地方から都会に移った。故郷に錦を飾ろうと懸命に働く。だが夢は夢に終わる。夢破れたとき、酒に酔い口ずさむ"夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷"。心象風景にある故郷はさらに愛しく、哀しいほど胸に迫ってくる。
近代化とは移動の自由を得る代わりに、故郷から切り離されること。そこに複雑な心情が生まれる。室生犀星は「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」と詠む。金沢を慕いつつも、居心地の良い場所ではなかった。相反する想いに引き裂かれていた。
石持て渋民村を追われた石川啄木。帰るに帰れない望郷の念は痛々しい。故郷の訛りが懐かしく上野駅へ聴きに行く。屈折した感情を押し込め「ふるさとの山はありがたきかな」と歌う。幼少期を過ごした土地は別格の存在だ。
『故郷』の作詞者は高野辰之。北原白秋や野口雨情ら童謡詩人に比べ、知名度は低い。国が作者不詳としていた。高野は北信濃の出身。春は菜の花の絨毯、秋は燃えたつ紅葉、冬は一面の銀世界。四季が鮮明な土地。国文学で身を立てようと、教員を辞め上京する。その直前、下宿していた寺の娘に求婚。娘の母は「将来人力車に乗って、寺の山門から入ってくる男になるなら許す」。苦難の末、文部省唱歌教科書編纂委員になる。さらに東京音楽学校教授から東大講師へ。
高野は『日本歌謡史』を著す。人間の喜び悲しみの叫びが歌謡の起源。古代から近代までの歌謡の原典や歌詞を分析し、考証を加えた大作。これで文学博士となり、意気揚々と人力車で山門をくぐった。

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