市長の手控え帖 No.150「メルケルと原敬の流儀」
ドイツを16年間率いてきたメルケル首相が引退した。欧州の病人といわれた国を欧州の盟主に押し上げた。昨年春のコロナ対策の演説は、国民の胸に深く届いた。国境管理と入国制限強化について「旅行や移動の自由が、苦難の末に勝ち取られた権利であることを体験している私のような者にとって、こういう制限は絶対的に必要な場合にのみ正当化される。どうか、今は受け入れて欲しい」。
東独出身のメルケルならではの言葉だった。メルケルはプロテスタントの牧師の家で育った。東独の人々の自由は制限され、常に秘密警察の目が光っていた。宗教家が冷遇された国で牧師の娘は目立つ存在。慎重に、冷静に。政治とは距離を置く。物理学を専攻したのも国の介入がないとの判断から。髪型や服装には無頓着。だが頭脳は明晰。いち早く物事の本質を把握する力は群を抜いていた。
日々ベルリンの壁の前を研究所へ通う。壁の向こうへの憧れは膨らむ。突然歴史が動いた。ソ連が自壊。ベルリンの壁も崩れた。東西の統一が進む。メルケルは防御の鎧を脱ぎ、政治の道に飛びこむ。
西独のコール首相は統一後の看板が欲しかった。そこにメルケルがいた。東独出身の女性。物理学者で政治歴なし。コールは彼女の政治的資質を見ぬき、大きく育てようとした。"コールのお嬢さん"は37歳で女性・青年相。続いて環境相へ。コールは、権謀渦巻く政治の修羅場で生き残る試練の場を与えた。
重要な車の排気ガス規制強化法案。事前の根回しも済み、閣議ではすんなり了承の筈。ところが閣僚から疑問の声が相次ぐ。「罠にはめられた!」。コールにも叱責される。衆人環視の中で泣いた。この悔しさが政治的耐久力を高めた。党幹事長から総裁、そして首相へ。
短命とみられていた政権は、欧州通貨、ウクライナ、難民、コロナ等の危機を乗り切り、EUの統合を維持した。激しく対立する各国の主張を十分聞き、粘り強く交渉し、妥協に導く。プーチンと16時間を超える議論で停戦にこぎつけた。
メルケルはビジョンを語らない。目の前の課題を科学者の目で分析し、熟考する。状況の変化をぎりぎりまで見極める。遅いようにみえて、絶妙なタイミングで的確な判断を下す。一旦決めたら揺るがない。また福島原発事故を契機に脱原発に舵を切るなど、良かれと思えば他党の政策も大胆に取り入れる。現実対応能力の高さは、他の指導者を圧倒した。
百年前の大正10年11月4日。東京駅で首相原敬が刺殺された。原は"賊軍"南部藩の出身。苦難の中で知性と実務能力を磨いた。外交官や新聞人を経て、伊藤博文が結成した立憲政友会に入る。伊藤は明治国家を自分の芸術品とみていた。政党は権力の均衡上必要だが、権力の中心になることは想定していない。原は政党が国政を担うべきと考えていた。
伊藤は去り、原が党を率いる。伊藤は明治国家最大の功労者だが、拠って立つ基盤を持たなかった。山縣有朋は、陸軍と官僚組織を握っていた。二人の力は逆転。政党嫌いの山縣が藩閥代表となる。原と山縣が激しく火花を散らす。山縣の牙城をどう切り崩すか。原は政友会を統率の取れた国民政党に育てた。
原は圧倒的多数で衆議院を制する。自ら藩閥政府の閣僚となり、統治力を鍛える。政策面でも正面から敵対しない。山縣の顔を立てながら有利な条件で妥協する。まさに、政治とは可能性の技術の駆使。じわじわ権力中枢にくいこむ。
山縣は原の非凡さと現実対応能力を認めた。大正8年本格的な政党内閣ができた。しかし原の死後、中心的指導者を欠いた日本は迷走していく。あと10年、外交や内政に影響力を行使できたら、昭和の悲劇は防げたのではなかろうか。メルケルも原も卓越した現実主義者だった。
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