第五回「寛政の改革」
寛政の改革で特筆すべきものは「七分積金」(しちぶつみきん)です。これは、江戸の各町内の必要経費である「町入用」(まちいりよう)を節約し、それを積み立てるものです。松平定信(まつだいらさだのぶ)は、町入用を3万7千両減額できることが分かると、減額分の7割を積み立てさせました。
定信はこのお金で、飢饉(ききん)に備えて江戸の町人50万人がひと月食いつなげるだけの籾(もみ)を蓄えさせました。さらに、籾の管理を商人に任せ、米価調整も行いました。定信は「囲籾」(かこいもみ)を活用し、米価を安定させようとしました。
また、積み立てたお金を勘定所御用達商人に運用させ、積金を増やしました。積み立ては寛政3年(1791)から明治初期まで約80年間継続され『楽翁公傳』(らくおうこうでん)によれば、明治7年時点で現金・米・土地など合わせて143万両(1両=5万円として換算した場合715億円)にのぼっています。
七分積金はまさに持続可能な政策だったのです。この巨額の遺産を活用し、渋沢栄一(しぶさわえいいち)はさまざまな事業を行いました。
経済政策では、商業資本を積極的に活用した田沼意次(たぬまおきつぐ)の方が優れているという評価もありますが、実際には定信も巧みな経済政策を行っていたのです。定信の時代には、幕府財政も一時期黒字になっています。
定信は6年で老中を辞任しますが、その後も仲間の老中が幕閣に残り、20年ほど定信の政策が継続されています。
「向柳原囲籾蔵並町会所之図」(『東京市史稿』より作成)
文・中山義秀記念文学館 館長 植村美洋(当時)
広報しらかわ 令和3年(2021)5月号掲載
- 2024年7月9日
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