第三回「渋沢栄一の生い立ちから青年期」
渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、天保11年(1840)武蔵国(むさしのくに)榛沢郡(はんざわぐん)血洗島(ちあらいじま)(現・埼玉県深谷市)で生まれました。生家は藍玉の製造販売を営む裕福な農家でした。父親の市郎右衛門(いちろうえもん)は教育熱心で、栄一が6歳の頃から漢文の手ほどきをし、7歳になると、栄一の従兄弟である漢学者・尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとに通わせて、四書五経などを習わせました。
幼い頃から学問に励んだ栄一は、貨幣経済の発達した土地で家業の手伝いをしながら商才を磨いていきます。これが後に栄一を経済人として大きく成長させるもとになります。
栄一はやがて一橋(ひとつばし)家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に仕えます。その頃パリで万国博覧会が開催され、将軍の名代として慶喜の弟である水戸(みと)家の徳川昭武(あきたけ)のフランス派遣が決まると、栄一も随行員として渡仏を命じられます。これが栄一の人生の一大転機となりました。
栄一は渡仏後、昭武とともにヨーロッパ諸国を視察し、近代化された社会・文明に驚かされます。フランス経済の仕組み、特に銀行制度や資本主義制度に興味を示し、それらを学んで帰国します。
その後、栄一は明治政府に出仕し、大蔵省の役人となります。そこでは、貨幣制度の改革、度量衡の統一、租税制度の改正、郵便制度の確立、鉄道の敷設、官庁建設など、数多くの重要な政策に関わりました。
ところが大蔵卿の大久保利通(おおくぼとしみち)と対立し、大蔵省を去ります。民間人となった栄一は、日本で初めての銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立して頭取(とうどり)となり、その後、約500の企業創立に関わっていくことになります。
▲旧渋沢邸「中の家」(なかんち)主屋
文・中山義秀記念文学館 館長 植村美洋(当時)
広報しらかわ 令和3年(2021)3月号掲載
- 2024年7月9日
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