市長の手控え帖 No.140「相容れない両雄」
勝海舟と福沢諭吉。江戸城を開き、大きな混乱もなく明治への橋渡しをした政治家。教育、思想、言論で日本の近代化に貢献した啓蒙家。ともに幕藩体制の限界を悟り、西欧文明による近代化の必要性を感じていた。だが仲は悪かった。特に諭吉が海舟をひどく嫌った。不幸な出会いの場は咸臨丸だった。
ペリー艦隊が国を開いた4年後。幕府は通商条約の同意書交換のため、使節団の派遣を決定。正使一行は米国軍艦で渡航。その護衛と幕府海軍の実習のため別船を用意した。咸臨丸である。提督は木村喜毅。使節団の副使も務める若きエリート。財産を売り払い三千両もの資金を用意した。温厚にして思慮深い。貴人の風格を備えていた。木村は艦長に海舟をあてる。米国行きを強く望み、海軍創設に寄与したことも評価していた。
諭吉も渡米を熱望していた。友人を通して木村を紹介してもらう。木村の身の回りの世話をする従僕として許可された。木村は、日本人だけで万里の波涛を越えられるか不安だった。いざという時のため、経験豊かな米国軍人を同艦させた。
1860年1月、浦賀を出港。洋上に出るや否や、北太平洋の荒波に翻弄される。37日の航海中、晴天は6日ほど。乗組員の多くが船酔いと疲労で寝こむ。操船どころではない。特に海舟はひどく、ほぼ部屋に閉じこもっていた。木村はやむなく米国軍人に指揮を委ねた。
船中での海舟の態度には誰もが失望した。本来、自分が全権を持てる筈。なのに、上級旗本で7歳も年下の提督がいる。面白くない!指揮もとれない屈辱。木村の相談事にも"どうぞご勝手に"、"俺は反対だ"。ある時は癇癪を起し、"ボートをおろせ、日本に帰る"という始末。あまりの八つ当たりに木村も手を焼いた。だが、木村は勝の非凡さを承知しており、ここでの非礼は口外しなかった。
諭吉は木村の世話をしているうちに、誠実さと責任感に尊敬の念を持った。木村も諭吉の働きに感謝し、その学識と向上心に敬意を払い、先生と呼んだ。下僕の自分が先生とは…。木村は諭吉の生涯の恩人。維新と同時に隠遁した木村を、物心両面で支えた。一方、敬慕する木村をいじめる海舟への反感は募った。
ようやくサンフランシスコへ着く。諭吉は近代文明を感じようと精力的に動いた。政治や社会制度の違いに衝撃を受ける。海舟も文明の差に圧倒された。これが幕府の近代化を進める原動力になった。
明治24年『瘠我慢の説』で諭吉はこう論ずる。国が衰えた場合、勝算がなくても力の限り抵抗することが瘠我慢。その上で講和を申し入れるか、死をとるかを選択すべき。これが立国の精神だ。敗北や死を厭わぬ三河武士の気風が、家康に天下をとらせた。国家は瘠我慢の精神なくしては成り立たない。
だが維新の際、海舟はこれを踏みにじった。維新とは徳川と薩長の権力闘争に過ぎない。にも拘らず抵抗もせず江戸城を明け渡した。江戸を戦火から救ったのは評価する。しかし、最初から負けるとひたすら講和を求めたことは、将来に渡り国家存立の気概を失わせた。その罪ははるかに大きいと糾弾する。
さらに許せないのは、幕府の幕引きをした者が、新政府の高官になり、伯爵を受けたこと。武士の風上にもおけない。今すぐ栄誉を捨て隠棲せよと迫る。海舟は「行動の意図は私の心中にのみある。批判や賞賛は他人のすること。私の知ったことではない」。見事な切り替えし。
"諭吉さんよ、おめえさんには、人間や政治の複雑怪奇さは分かるまいよ"。"海舟先生、そうは言っても、曲げてはならない筋があるとは思いませんか"。二人の埋めがたい溝は咸臨丸の一件が生んだのか。そもそも性格や生き方が交わらないものだったのか。いずれであろう。
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