市長の手控え帖 No.137「次郎長と明治維新」
清水といえば次郎長。海道一の親分を知らぬ者はいない。廻船業者の二男に生まれる。養父は米穀商。裕福に育ったが商売そっちのけ。喧嘩と博奕の日々。旅の僧に「惜しいかな、あなたの命はもって25歳まで」とのご宣託。ならば算盤、帳簿に何の意味があるか!太く短く生きよう。無宿者になり清水を後にする。
旅から旅への三度笠。道中で、大政・小政・石松らと盃を交わす。徐々に精強な戦闘集団ができる。次郎長は義理・人情に厚く、船頭の気質も持つ。一家は船。荒波を乗り切るには、組員の固い結束と一体感が欠かせない。整然とした統率と横の連携。次郎長の風を読み、潮目を読む天性の勘。清水一家は状況に応じ、自在に隊形を組み勝ち抜いてきた。
商品経済の発展に物流は欠かせない。港、河岸、宿に人・物・金が集まる。賭場ができる。喧嘩になる。利害の調整が必要になる。博徒は裏社会の警察、調停役になる。三河は伊那街道で信州に、清水は富士川で甲州に通じている。前には江戸大阪への海が開けている。次郎長は博徒に必要な武力と財力を備えていた。
次郎長を有名にしたのは講談師や浪曲師。これには『東海遊侠伝』という種本があった。著者は一時養子になった天田五郎。五郎は磐城平藩の出身。戊辰の負け戦の中、行方不明になった両親と妹探しの旅に出る。ある縁で山岡鉄舟に会う。鉄舟は無鉄砲な若者を、人探しの裏情報に詳しい次郎長に預ける。
鉄舟は勝海舟・高橋泥舟とともに幕末の三舟といわれる英傑。剣・禅・書の達人。時流に流されない至誠の人。海舟の使者として、単身駿府の西郷隆盛に会う。徳川慶喜の助命、江戸城攻撃の中止などを大枠で妥結。海舟・西郷の会談は有名だが、その功績は鉄舟にあった。
19世紀。幕藩体制はゆらぎ、身分制も崩れ、藩や天領の警察力も低下する。一定の武器と集団を持つ博徒が支配者に敵対する事件が頻発。国定忠治は、天保飢饉の窮民を救い、沼を浚渫する。凶状持ちの忠治は磔になるが「強きを挫き弱きを扶く」侠客として名を残す。
ペリーの来航。井伊大老の暗殺。佐幕か勤皇か。熱病のような思想と狂騒の時代を迎える。時のうねりは任侠集団をも巻きこむ。刃の下をくぐってきた博徒は即戦力。尾張の博徒は隊を結成し官軍につく。宿敵、甲州の黒駒勝蔵もいち早く身を投ずる。次郎長は動かない。大波に流されることの危うさを感じとっていた。
徳川家は70万石で駿河に移封。次郎長は清水に移る旗本の世話をする。炊き出し・宿泊・市中警固。任侠の徒が生活と治安を守った。慶応4年8月。栄光の咸臨丸が傷つき入港。幕臣榎本艦隊が北上する途中、台風に遭い流された。
一月後、官の軍艦が砲撃。海上に死体が浮かぶ。だが賊軍の屍を葬ることはできない。存続を許された藩は手を出せない。そこに次郎長が登場。「死ねば仏。仏に官も賊もあるものか!」遺体を収容し埋葬した。鉄舟はいたく感激し、「壮士の墓」と揮毫。二人は深く結ばれる。
次郎長は鉄舟の勧めもあり、維新を機に正業で身を立てようとする。アウトローは既成の枠にとらわれない。起業家精神で、富士山麓の開墾・油田の開発・清水港を拡充する。政府は版籍奉還、廃藩置県を断行し、近代化へ突き進む。旧士族の不満が高まる。デフレ政策で米や生糸の価格が暴落。農村にも都市にも貧民がでる。自由民権運動も大きくなる。これに武力をもつ博徒が加わる。
明治17年。危機を感じた政府は、博徒の一斉検挙を行う。次郎長も逮捕され監獄入り。懲役7年のところ、鉄舟人脈もあり、短期間で釈放。晩年は無頼の牙をぬき、割烹の亭主として穏やかに過ごす。明治26年、大侠客は任侠の美学を貫き、畳の上で大往生する。74歳だった。
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