市長の手控え帖 No.133「脚気と鴎外」
新型コロナウイルスという魔物が世界をおおっている。命をかけ奮闘している医療従事者に敬意を表したい。一時的に感染者が減っても、百年前のスペイン風邪のように第2、3波が想定される。持久戦を覚悟し、早急に医療体制を整え、新薬やワクチン開発に取り組むべきだ。
コロナは現代社会の病理を浮きぼりにした。強欲な資本主義、科学技術の驕り。地球温暖化。過度なグローバル化。富める国と貧しい国。大都市と地方の格差…。文明そのものが問われている。今はコロナの終息に全力をあげる。一方で、コロナ後の社会・経済システムの転換に備えなければならない。
かつて日本は脚気に苦しんだ。脚気は結核と並ぶ国民病として恐れられた。ビタミンB1不足によるもので、倦怠感や足がむくみ、しびれてくる。重くなると知覚麻痺や歩行困難から心不全になる。主食が玄米から白米に代わった江戸時代から増えてきた。地方から都会に出た人たちが発症したことから、″江戸患い″とも呼ばれた。13代将軍家定、14代家茂と夫人和宮も脚気で亡くなっている。
明治になるとさらに広がる。特に軍隊での流行が目立った。だが、海軍と陸軍の対応は違った。明治15年、戦艦が遠洋航海に出た。途中、兵員376人の半数近くが脚気にかかり25人が死亡。停泊したホノルルで持参した食糧を捨て、肉や野菜を与えたところ元気になった。
病気になったのは白米中心の水兵。おかずの多い士官は罹らなかった。時の海軍軍医総監は高木兼寛。臨床を主体とするイギリス医学を学んだ。高木は、脚気はタンパク質不足と推測し、白米から麦飯・洋食に切り替えた。直後の航海では殆んど発症しなかった。医学的証明はできなかったが、対策には成功した。
陸軍は伝染病説を採った。当時は、理論重視のドイツ医学が主流。東大教授も軍医もドイツで学んだ者ばかり。お雇い外国人ベルツは細菌による伝染病とみ、ノーベル賞のコッホも伝染性の脚気を否定しなかった。また徴兵令の目玉は、一日六合の白米支給。″銀シャリ″を腹一杯食べることは庶民の夢であり、麦中心に変えるのは難しかった。
日清戦争時の軍医総監は、伝染病説を強く唱える石黒忠悳。陸軍を牛耳る山縣有朋の腹心で、職を退いた後も隠然たる力を有していた。後の総監森林太郎(鴎外)は、石黒の忠実な部下。論文でも白米の優位さを説き、高木説を否定した。
高木VS石黒・森。軍配は高木にあがる。日清戦争の脚気死者は、海軍0で陸軍は4千人。日露戦争の陸軍の脚気患者は25万人、うち2万8千人が死亡。戦死者の総数は4万7千人であるから、銃弾の犠牲者を越えている。ロシアは「歩行もままならない幽気のような日本兵」が、最新鋭の機関銃の餌食になったと記す。海軍は微々たるものだった。
白米中心の食事が惨禍を招いたと陸軍は非難された。標的にされたのは森。軍医としての責任はあるが、総監就任は日露戦後であり、主犯とは言えない。ただ病理解明に固執し、対応が遅れたことは否めない。後世からみれば、戦争時の軍医トップの名を知る者は少ないし、その失敗を責めても面白くない。だが文豪の鴎外ならがぜん興味をそそる。森への批判は有名税であろう。
明治41年、森の提唱で脚気病調査会が設置。北里柴三郎ら一流のメンバーで研究がなされた。紆余曲折はあったが、大正13年の総会で脚気の原因はビタミンB欠乏と確定。脚気論争は終わった。
鴎外の遺書。「余は石見人 森林太郎として死せんと欲す。」と国からの栄典を拒否した。爵位も貴族院議員も与えられなかったことへの抗議か。肩書き・名声は一時のもの、死ぬ時は裸でいいとする潔さか。心のうちはどうだったのだろう。
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