市長の手控え帖 No.122「北原白秋と童謡」
本市の教育目標に「未来を切り拓く人間力」を掲げている。それには、優れた感性や感受性が欠かせない。昨年は、近代戦争の悲惨さを見せつけた第1次大戦の終結から百年。同じ年の大正7年7月。児童文学者、鈴木三重吉が児童向けの雑誌『赤い鳥』を創刊した。
三重吉は、それまでの雑誌が、教訓的で子供を教育秩序の中に組み込んでいることを批判した。子供は大人の世界とは別に、子供時代という特別な時代があると考えた。『赤い鳥』は、子供の純粋さや童心を保護し育成する、新たな芸術の創造を目指した。
明治は、先進国に追いつくことを国の方針とし、富国強兵や殖産興業に必要な教育を行った。大人も子供も緊張の中にあった。大正に入ると、時代の空気が変わる。大戦では戦闘に加わらずに勝者となり、好景気にわいた。大正デモクラシーもあり、民衆による文芸が花開き、子供を自由に解き放とうとした。急速な近代化で、都市部に会社員、官吏、教員などの新中間層が生まれ、この層を中心に『赤い鳥』の読者は増えていった。
童謡を担当したのは‶言葉の魔術師″北原白秋。童謡は口頭で伝承されてきたわらべうたや、国主導の唱歌と異なり、雑誌という印刷メディアから誕生した。白秋は、水郷の里、福岡県柳川の裕福な商家に生まれた。中学の頃から詩歌に熱中。父に無断で退学し早稲田に入る。
同級生に、酒と旅の歌人若山牧水がいる。『邪宗門』など若くして才能が開花した。一方で、煩悩に翻弄され、実家も破産するなど、浮き沈みの激しい前半生だった。やがて心も収入も安定すると、ほとばしるように名作が生まれる。
白秋は、国づくりのための唱歌に不満を持った。子供の好奇心や未知なるものへの驚き、憧れを自分の言葉で表現することの大事さを説いた。また、都市化の中で功利主義がはびこり、日本の風土や伝統、童心の衰退を危惧した。そこで、わらべうたの復権を中心に、文芸としての童謡を唱えた。
日本語にはリズムがある。詩人は言葉で音楽を作っている。童謡は定められた旋律ではなく、各々自由に歌っていいと思った。どこまでも言葉を大切にする白秋は、自分の詩に五線譜の曲がつくのを嫌った。一方、読者からは楽譜を要望する声が強まる。三重吉は売り上げを伸ばすことに舵を切る。童謡の作曲という方針転換は、白秋との間に溝を生んだ。
白秋は山田耕筰と出会う。耕筰は、米国で東洋人初の演奏会を開き大成功。日本初の交響曲やプロのオーケストラを作るなど、日本管弦楽の基礎を築いた。一方、破天荒な行動で「教科書にのせられない」生活のときもあった。
白秋は、日本語そのものにリズムがあることを強調し、耕筰は日本語に合わせたメロディと詩情を大事にすべきと応える。言葉を重視する耕筰に共鳴し、曲のついた童謡を作ることを決めた。
盟友は三百余の歌曲を共作し、親交は二十年余に及んだ。互いの才能に敬意を表し、人柄にひかれあった。耕筰は「白秋が死んでから、僕はいい作品を書いていない」と言った。白秋との仕事の充実感が分かる。二人の作品は、童謡史を飾る名曲揃い。『この道』『からたちの花』『ペチカ』『待ちぼうけ』『砂山』…。
中でも『この道』にひかれる。「この道はいつか来た道 あの丘はいつか見た丘あの雲もいつか見た雲…」。何故か懐かしさが込みあげてくる。白秋は、誰もが持つ懐かしいという情緒に訴えた。
今、言葉も音も洪水のようにあふれている。だが、その多くは記号のようだ。胸にしみる詩や旋律はどれほどあるだろうか。もうすぐAIやロボットの時代がくる。だからこそ、豊かな情緒性や感受性を育む現代版の童謡が必要だと思う。
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