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市長の手控え帖 No.114「夕陽に乾杯」

市長の手控え帳

 

私には変な習性がある。草木が全て緑におおわれ、早苗が風に揺らぐ頃。晴れた日のたそがれ時になると、西の空が気にかかり、そわそわしてくる。夕焼けを見たい。ただそれだけのこと。

太陽が山際に隠れようとする前後、西空が赤々と燃えている。少し上にたなびく雲も茜色に染まる。その上の空はまだ青い。時が経つにつれ、空が濃紺になり、雲の色も様々に変わる。やがて陽が落ちる。しばらくは、あたり一面の空や雲も輝いている。美しく、幻想的で、センチメンタル。夕焼けから残照の天体ショーに、たまらなくひかれる。晴れすぎても綺麗には見えない。適度な雲が、うっとりする夕焼け空を演出してくれる。

市役所から日の入りは見えない。近くにないか。ちょうどその時期に、屋上ビアガーデンがオープンする。急ぎ足でビルをかけ登る。好きな映画の始まりを待っている気分で、西側の端に座る。黄色の強い光が、次第に優しい赤色になってくる。しばし、日輪と空と雲の織りなす芸術に心が溶けていく。生ビールも夕焼けに染まり赤味を帯びてくる。

夕焼けはどの季節がいいか。恐らく秋を思い浮かべることだろう。澄みきった空を赤く染める夕焼けは格別だ。童謡のイメージも大きい。「夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのはいつの日か」は明らかに秋。「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘がなる…。子供が帰った後からは 円い大きなお月さま」は中秋の名月の頃か。「とんぼのめがねは赤色めがね 夕焼け雲をとんだから」。「秋の夕日に照る山 紅葉」。和歌や童謡を通して、日本人の心に、夕焼けは秋とすり込まれているのかもしれない。

季節の美しさを、時間の観点で切り取った『枕草子』。清少納言の観察眼は繊細で鋭い。有名な「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく 山ぎはすこしあかりて(明るくなって)…」。に続き「秋は夕暮れ。夕日のさして 山の端いと近うなりたるに…」と記す。平安貴族も、秋の夕日に美を感じていたのだろう。

俳句の世界では、夕焼けは夏とされる。秋の日は釣瓶落とし。風情はあるが、儚げに日が落ちていく。梅雨が明け、夏晴れが続く。真夏の西の空いっぱいに、ダイナミックで大きな光景が広がる。その印象が強いことから、夕焼けは夏となったのかもしれない。私は、昼がそろりと店仕舞いし、ゆっくりと夕闇に包まれるこの季節の夕焼けが好きだ。

夕焼けへの想いは様々。一日の仕事を終え、家路につく先に見える夕陽。解放感と安息の訪れ。働き方改革に縁のない寅さんも、商いを終えた。夕陽に背を照らされ、のんびりと川沿いの道を宿に向かう。柴又帝釈天の梵鐘が鳴り、参道が赤く染まる。ミレーの『晩鐘』。平原が夕陽に包まれる頃。鐘の音が響き、農民夫婦が一日の平穏に感謝の祈りを捧げる。夕陽は安らぎの象徴だ。

子供の頃、友達と遊びに夢中になり、家へ戻る時に輝く夕陽。誰もが無邪気にはねまわった頃を懐かしみ、故郷の山河を思い出す。夕焼けは郷愁を連想させる。映画『ALWAYS三丁目の夕日』。完成した東京タワーの後ろに広がる夕焼けを、鈴木オートの親子が幸せそうに眺める。明日もいい日だろうと言いながら。夕日は未来への希望だ。

大正11年、アインシュタインが来日。滞在した帝国ホテルのベルボーイに、チップ代わりにメモを渡した。これが約1億7千万円で落札され、話題になった。「静かで質素な生活は、絶え間ない不安にかられ成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらす」と書いてあった。

からすも寝ぐらに戻る夕間暮れ。段々畑から、海の岸辺から、縁側から目を細めて夕焼けを楽しむ。何気ない日常にこそ幸せがある。

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