市長の手控え帖 No.113「明大マンドリン倶楽部と古賀政男」
「白雲なびく駿河台 眉秀でたる若人が 撞くや時代の暁の鐘」。校歌が響く。先々月、明治大学マンドリン倶楽部の演奏会が開かれた。満席の中、幕があがる。学生服姿の若人に大きな拍手。マンドリン倶楽部の創設者、古賀政男の薫陶を受けた指揮者のタクトが振られる。
荒井由実やサザンオールスターズの曲に続き、望郷の古賀メロディー。『緑の地平線』『誰か故郷を想わざる』。何度聴いても胸が熱くなる。青春の輝きを軽快なリズムに刻んだ『丘を越えて』。そして古賀の原点『影を慕いて』を、テノール歌手が哀愁を込め、切々と歌う。
後半は一転して、ブルーのジャケットに身を包み、世界の曲を奏でる。ジャズ・映画音楽・イタリア民謡・ラテンメドレー。心躍る名曲の調べに、ブラボーの声が相次ぐ。アンコールには、総立ちで割れるような拍手。
感傷的な音色のマンドリンに、エレキやドラム、パーカッションを取り込み、より多彩に、より華やかになっている。伝統を守り、新たな分野に挑戦するマンドリン倶楽部の演奏を十分堪能した。
古賀政男は、1904年、福岡県大川市に生まれる。早くに父を亡くし、9歳で長兄を頼り朝鮮へ渡る。だが兄の態度は冷たかった。辛さに耐える母、優しい姉とひっそり暮らした。後年、故郷や母、姉の話になると泣いたという。故郷を喪い、姉も遠くへ嫁いでいく。
「花摘む野辺に日は落ちて みんなで肩を組みながら…。ひとりの姉が嫁ぐ夜に 小川の岸でさみしさに 泣いた涙のなつかしさ…」。西條八十の詩に哀愁のメロディーがのる。
兄の許しを得て商業高校へ。その頃、仲の良かった四兄が、マンドリンを買ってくれた。たちまち虜になり、鬱屈した日々を癒してくれた。卒業後、大阪に就職したが、進学の志は捨てきれなかった。身の回りの物だけ持って上京。首尾よく明大に入学し、早速マンドリン倶楽部を結成した。音楽院でギターやマンドリンを教え、生活費を稼ぐ。
卒業がせまるが、世は不況のどん底。将来への不安と失恋。苦悩のなか旅に出る。蔵王の麓、青根温泉に投宿。何かに導かれるように谷間を降り、剃刀を喉にあてる。流れる血を押さえ、ふと顔をあげると、山の間に消え行く夕陽が見えた。死への誘惑と美しい夕陽。その年の秋「まぼろしの 影を慕いて 雨に日に 月にやるせぬ 我が想い…」が生まれる。
古賀の才能を認める人の仲介で、日本コロムビアに入る。正規な音楽の勉強をしていない。はたして、プロとして通用するのだろうか。だが、音楽的感性は研ぎ澄まされていた。『酒は涙か溜息か』ができた。さあ歌い手は。そこに東京音楽学校の学生があらわれた。
慶応出の青年は、明朗で歯切れがいい。美しい声の響きと音程の確かさ、卓越した表現力。藤山一郎との出会いだった。暗く哀しい曲を、感情を押さえ、呟くように歌う。『丘を越えて』『東京ラプソディ』『影を慕いて』。ここに「昭和歌謡」最強のコンビが生まれる。
しかし、二人には確執もあった。藤山は、古賀の日本人の心を揺さぶる多彩なメロディーに驚嘆した。一方で、型にはまらない旋律と、鋭敏な感受性が生み出す独特の世界に、入っていけばいくほど違和感を覚えた。大衆の心に寄り添う古賀と、芸術性も追求する藤山。歌謡界にそびえる二大山脈は、個性のぶつかりの中で作られたのかもしれない。
古賀を貫く情念は「寂しさ」と「哀しさ」。古賀は伝記に「"古賀メロディー"よ、さようなら」と書いた。哀しみの歌ばかりでは不幸だ。もっと幸せな歌を歌って明るく生きるべきだと。だが、生きるとは哀しみを背負うこと。今後も古賀メロディーは歌い継がれていくだろう。
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