市長の手控え帖 No.106「江戸の旅事情」
新聞や雑誌には、旅への誘いが満載。駅のポスターも旅心をくすぐる。夏の北海道、紅葉の京都、湯煙の温泉郷。名だたる観光地は人の波。日本は、史上何度目かの旅行ブームがおきているように思える。人は旅への欲求がある。命の危険が伴っても、何かにつき動かされるように、信仰の地や景勝地を訪ねる。
旅行熱は江戸に始まる。参勤交代に伴う街道の整備。高級旅館から木賃宿までの宿揃え。駕籠や馬が用意され、飛脚の発達などが環境を整えた。当初は国もとと江戸を往復する武士層が中心だった。やがて、庶民が伊勢や金比羅参りを目的に、名勝地をめぐる観光をするようになる。旅の時代が幕をあける。
庶民の大部分は農民。この頃の農民といえば、きつい年貢と身分に縛られ、困窮しているイメージがある。実態はそうでもないようだ。確かに初期は、「七公三民」、「六公四民」と高い年貢だった。幕藩体制が安定するにつれ、「四公六民」、「三公七民」になり、幕末まで続いた。
17世紀、日本は経済成長の時代を迎えていた。開田も盛んに進められた。品種改良や農業技術が進歩し、生産性もあがる。当然、蓄えができる。各地で桑・漆・茶・綿花・菜種等の商品作物が栽培される。陸・海の物流システムが整い、全国規模の商品流通ネットワークが形成されてきた。生産物が円滑に取り引きされ、さらに商品の開発、生産を促すという経済の循環ができる。
そもそも日本の農業は、「半農半工」「半農半商」に示されるように、多角経営があたり前。極端な言い方をすれば、農村とは「農業も行うムラ」であり、農家とは「農業も行うイエ」だった。しかも、年貢は主に水田が対象。副業はおおむね対象外だった。江戸は、飢饉もあり、一揆もあったが、よく治まっていた。結果として広く富が蓄積されてきた。農民は搾り取られ、忍従を強いられるという見方は、必ずしも正しくないようだ。
長屋暮らしの八っつあん、熊さん。安い手間賃で、その日暮らしのイメージ。だが、年間を通して稼業は安定していた。年貢もない。大家さんから町内の使い走りを頼まれる。どぶさらいから正月のしつらえまで雑用をこなす。ときに奉行所の下っ引きも。かなりの小遣いがあった。「宵越しの銭は持たねぇ!」とは、生活費とは別に遊興費があったからともいえる。思いのほか、庶民の懐事情は悪くなく、闊達な暮らしぶりだった。
「入り鉄砲に出女」。女性が自由に国や家を離れることは、厳しく制限された。関所でのチェックも厳格だった。とは言うものの、女性の旅は珍しくない。井原西鶴もオランダ商館の医師ケンペルも「貴賤男女の別なく旅する」と記す。関所破りは普通に行われ、「女かくれ道」という迂回路があった。女性の道中記も残されている。武士の妻女は、準公務のように江戸との間を往復するが、結構寄り道し、名所旧跡を楽しんでいた。
天保年間、筑前の商家のご内儀が、仲間の女あるじに誘われ旅に出た。女4人が、男従者3人とともに、大阪、奈良を経て念願の伊勢へ。ここから木曽谷を越えて善光寺、日光そして江戸へ。難儀な川越え、峠越え。手形なしで関所を抜ける。雲助らに追われたり。スリリングな中にも、和歌を詠みながらの和やかな旅は、5ヶ月にも及ぶ。
これだけの旅をするにはお金が必要。夫や子からの小遣いではなく、自らの才覚で蓄えた。女性の力なくして商家も農家も存続できない。男と女は仕事を分けあい、家業を支える共同経営者。女性の経済力、学びの意欲、まだ見ぬものへの憧れが背中を押した。今や旅の主役は、完全に女性である。
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