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市長の手控え帖 No.97「台湾の土になる」

市長の手控え帖2

 

アジアを中心に外国人観光客が急増している。昨年暮れ、上海と台湾で観光セールスをしてきた。双方の対応は随分と違った。上海の旅行会社は、依然として原発事故の影響が強く、福島向けの企画はまだ先のことと、いささか冷たい反応。風評の深刻さに心が沈んだ。
台湾では話題にのぼらなかった。東京からの距離、交通条件、観光ポイントを尋ねられた。「前向きに検討してみます」との、にこやかな顔にほっとした。台湾は親日的といわれる。確かに街のそこここに親しさが感じられる。日本語が通ずるせいか、演歌のメロディが流れているせいか、異国へ来た緊張感は少ない。懐かしい日本にめぐり合ったようだ。
台湾は日清戦争後、50年間日本が統治した。清は、台湾を文明の届かぬ“化外の地”とし、治安対策の他は力を入れなかった。日本にとって、軍事上も経済上も重要な島。だが、“搾る”という植民地的手法では、早晩行き詰まることは必至で、円滑に経営するための方策が欠かせない。それには社会資本を整え、産業を興し、生活レベルをあげることが必要だ。
これを十分心得ていたのが、台湾総督の児玉源太郎と民政長官の後藤新平。融和と協調により、自立的発展を目指す「台湾のための統治」。度量と優しさを備えた児玉は精神の人。児玉に心服した後藤は超がつく有能な実務家。二人の治政は8年続き、行政の仕組みを整え、鉄道を敷き、農業を振興させた。その下に精鋭が集う。製糖業の飛躍的発展に尽くした新渡戸稲造。苦闘の末、縦貫鉄道を敷設した長谷川謹介。志のある官僚や経済人が、次々と台湾を目指した。
その良質な明治的精神の系譜の中に、八田與一がいる。東京帝大で学んだ土木技術者。「官位や地位のためでなく、人の役に立ち、後世に恩恵を残す仕事をしたい」との信念で、自ら望んで台湾に来た。
大陸寄りの台湾中南部に、嘉南平野という穀倉地帯がある。かつてここは洪水、干ばつ、塩害に苦しむ不毛の地だった。八田は考える。ここに水を引き、美田に変えられないだろうか。
台湾の真ん中は南北に高い山が連なり、幾筋もの谷から勢いよく水が流れる。どこかを堰止め、ダムをつくり、その水を水路で配る巨大な灌漑施設はどうか。遠大な構想は物議を醸す。莫大な費用は、人と機械は用意できるのか。時の総督と長官は逡巡せず事業を承認した。大正9年、夢の大工事が始まった。
貯水量1億5千万トンの烏山頭ダム。堰堤は、土・砂・玉石等を組み合わせ、コンクリート以上の強度を出す驚くべき工法だった。給排水の延長は1万6千キロメートル。万里の長城の6倍以上の水路を、網の目のようにめぐらせ、15万㏊の水田を潤す。難工事は、わずか10年で完成した。人々は滑るように流れくる水を目にし、「神の恵んだ水」と歓喜の声をあげた。
近くには職員宿舎や作業員長屋、商店街、小学校が作られ2千人の街ができた。映画や芝居、盆踊りを共に楽しみ、休日には麻雀や花札に興じた。八田は日本人も台湾人も分け隔てしなかった。夫人も頭の低い人だった。そこには仕事と生活が溶けあう、暖かい共同体があった。
ダム湖は、一帯の山々が沈み、無数の枝を張った珊瑚のようにみえることから、「珊瑚潭」といわれる。美しい湖水を見おろす丘に八田の銅像がある。意思の強そうな角ばった顔。作業ズボンで腰をおろし、湖を見つめている。
その奥に夫妻の墓がある。二人は悲劇的な死を迎えた。八田は昭和17年、灌漑調査で南方に向かう途中撃沈された。夫人は昭和21年、日本人が引き揚げる中、ダムに身を投げた。農民は日本風に御影石で墓を建てた。八田の命日の5月8日には、毎年墓前祭が行われている。夫妻は台湾の土になり、今も慕われている。

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