市長の手控え帖 No.94「参勤交代と新幹線」
仕事柄、よく東京に出向く。朝、白河を発っても、午前10時の会議に楽々間に合う。いくつか用事を済ませても、夕食の頃には戻れる。いかに便利なことか。北海道や九州の市長と話すとよく分かる。東京からの距離にもよるが、新幹線の存在が大きい。日本の高速鉄道は、安全・快適・高速性で世界の先端を走る。
鉄道技術は、フランスやドイツも優れており、フランスの"TGV”は、新幹線よりも速い。しかし、運行数と正確さでは、断然日本が勝る。混雑時の東京駅では3~5分毎に、しかも定刻どおり発車する。欧米人の目には奇跡のように映るらしい。さらに東海道では、高速の"のぞみ”、快速の"ひかり”、各駅停車の"こだま”が同じ路線を走る。
当然、後発の列車が、先行列車を追い越す。在来線との連結もある。ダイヤ編成は極めて緻密で複雑となる。これを円滑にこなすには、定時運行が絶対の条件だ。新幹線は難しい課題を、見事に克服している。それができたのは、旅の歴史的文化的な背景と、日本人の特性によるものと思われる。
運行数が多いのは、大量の人が移動することを意味する。そもそも日本人は旅好きだ。平和が保たれた江戸時代から、特に盛んになった。オランダは長崎で貿易を許され、商館長は将軍に謁見するため、定期的に江戸へ向かった。これに随行した医師ケンペルは、「街道は清潔で、ヨーロッパの都市と同じくらい大勢の人で溢れている」と道中記にしるす。
五街道が整備され、治安もいい。手甲、脚絆程度の装備で、女性、子供までが旅をした。抱腹絶倒の「東海道中膝栗毛」は旅心をかきたてた。弥次喜多コンビは、近くへ用足しに行くような気楽さで、旅に出る。広重の「東海道五十三次」に描かれる旅人も、ほとんどが軽装だ。戦が絶えなかった同時代のヨーロッパでは、武装するのが当たり前。毛布を用意し、ベッドも持参するのが旅の心得。日本はおとぎの国だった。
旅には宿が欠かせない。宿場には、本陣とよばれる高級な旅館から木賃宿まで、宿が揃っていた。人や荷物を効率的に運ぶため、馬と人足を備えた問屋場もあった。旅人は必要に応じ、馬や駕籠を利用できた。荷を次の宿へ先送りし、不要なものを故郷へ送り返すこともできた。当時から“宅急便”を含め、周到な交通・輸送システムがつくられていた。あらためて江戸人の知恵に驚く。
街道や宿場の整備は、参勤交代に負うところが大きい。諸大名が江戸と在藩を一年毎に繰り返す。各藩は格式に見合った供廻りを揃え、春先になると一斉に移動する。日程は幕府に提出し、滅多な事では変更できない。行列が重なると、本陣の奪い合いにもなりかねない。
ルートを定め、宿も決める。綿密に打ち合わせ、行程を確定していく。実に骨の折れる仕事だ。浅田次郎は、中山道を江戸に向かう一行の難儀を“一路”に描く。複雑な集団移動のプランを練り、正確に実行する参勤交代は、新幹線の運行に引き継がれているように思える。
社会の安定は経済的余裕を生み、名所観光への関心が高まる。これに信仰の旅が拍車をかけ、旅行の環境を整えた。国民的行事のような伊勢や金比羅神社参詣は、各地の祭礼や名物料理を楽しむ旅でもあった。ケンペル記にも「街道は寺社詣の人でいっぱい」とある。
全国の善男善女が、願かけに押し寄せる。その陰には「御師」と呼ばれる、客集めの営業マンがいた。御師の業務は、道案内から参拝手続きは勿論、宿の手配、土産物の世話にまで及ぶ。旅行業の先がけと言える。江戸から今に至るまで、日本人の旅への興味、憧れは続いている。金沢、函館へ伸びた新幹線は、さらに多くの人の夢を乗せ、列島をかける。
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