市長の手控え帖 No.86「公園のレストラン」
学生の頃、アルバイト先から帝国劇場の券を頂いた。当時、三越や帝劇は高嶺の花。嬉しい半面、戸惑いもあった。演目は宮本武蔵。主役は美男の代表、長谷川一男。その流し目は色っぽく、女性の心を捉えた。NHKの大河ドラマ“赤穂浪士”で、大石内蔵助を演じ大ヒットした。いつもは謹厳な祖々母が、画面に顔を近づけうっとり見とれていたのを思い出す。
帝劇へジーパン、というわけにもいかない。一張羅のジャケットとスラックスに、下宿の先輩から借りたネクタイを締め、“体裁”は整った。だが帝劇通の人には、場にそぐわない野暮な若者に見えたことだろう。さて昼食、いつもの安い定食では格好がつかない。日比谷公園の中心に、明治から続く老舗の洋食レストラン“松本楼”がある。今日は奮発してここで食べよう。心を決めまずは懐勘定。大丈夫。慣れているというふうに振舞わねば…。緊張しながらカレーを食べた。今思うとどこか滑稽で、くすっと笑ってしまう。
日比谷公園は、欧米に匹敵する首都にふさわしいものにと、国の威信をかけ造られた。皇居や銀座、官庁街にほど近く、憩いや集会の場として親しまれてきた。そのシンボルが出窓のある木造3階の洋風建築だった。園内を散策した後、松本楼でカレーとコーヒーを楽しむのが憧れだった。
創業者は小坂梅吉。現社長は孫にあたる。松本楼の110年は日比谷公園の歴史であり、受難の年月でもあった。開店間もない1905年1月、日露戦争の祝勝会が行われた。一転して9月。大きい犠牲に比して、少なすぎる戦果に反発した民衆は、あたりに火を放った。最初の難は関東大震災。もともと海や湿地であった一帯は、強い揺れに耐えきれず倒壊した。陸軍反乱部隊が首相官邸を襲撃、警視庁などを占拠した2・26事件。鎮圧隊は公園に大砲を据え、松本楼の頭越しに砲撃態勢をとる。まさに一触即発だった。
おごそかに山本五十六元帥の国葬が営まれた。戦況が悪化する中、海軍将校の宿舎として接収された。終戦の年の1月、日比谷・銀座が低空からの絨緞爆撃を受けた。辛うじて難を逃れたのは奇跡だった。いよいよ終戦。再開しようとする矢先、今度は米国に接収される。外から戻るときにはパスポートがいったという。自宅なのに「外国」の扱い。占領下の悲しい光景だったと社長は語る。
営業が始まったのは1951年11月。なじみ客の喜びはひとしおだった。その中には銀幕のスターもいれば、役人や政治家もいた。福田赳夫元首相も、大蔵省の官僚時代からのなじみで、結婚式もここであげた。経済の成長とともに客足は伸びた。だが思いもかけない悲運に遭う。過激派学生による放火で、建物と貴重な写真や資料が消失した。呆然自失。背中を押したのは「思い出のつまったレストラン」の再建を願う激励の声。1973年9月、様々な困難を乗り越えて甦った。
秘話がある。社長夫人の母方の父は梅屋庄吉という。香港で写真館を営み、映画興業で財をなした。写真を撮りにきた孫文と出会う。西欧列強に蚕食される母国を憂う革命家と意気投合し、夜を徹し語り合う。“君は兵を挙げよ、我は財を挙げ支援す”と盟約する。梅屋はこれを生涯守り、孫文に惜しみなく資金を投じた。
梅屋は店の常連で、小坂梅吉とも親しかった。松本楼は日本亡命中の孫文を支援する会合の場となった。孫文の支援者といえば、頭山満、宮崎滔天らが知られるが、中心となったのは梅屋だった。梅屋は表に出るのを極力避け、娘にこう遺言した。“私が中国革命に力を貸したのは孫文との約束。支援を示す日記や手紙などは一切口外するな”。義母は堅く守り、嫁ぎ先で資料を大切に保管していた。松本楼に嫁いだ娘にも話さなかった。
8年前、中国の胡錦濤主席が来日。主席から福田康夫首相に松本楼で会食したいとの申し出があった。首相は大賛成。社長と、小坂・梅屋双方の血をひく娘さん(4代目)の晴れ舞台となった。孫文と梅屋の関わりを説明。胡は聞き入り、孫文筆「同仁」の扁額の前では無言でたたずんだという。両首脳の会食と歴史秘話は、中国でも大きく報じられた。松本楼は、日中友好の架け橋になった。
去年の夏の盛り、松本楼に涼を求めた。蝉しぐれと木々を渡る風は心地良かった。日比谷の歴史を見つめ、人々の夢を紡いできたレストランの、アイスコーヒーは格別おいしかった。今度はビールを添えて懐かしいカレーを食べてみよう。
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