小峰城跡【こみねじょうあと】
※三重櫓の開館時間等については、こちらをご覧ください。
小峰城跡(南から)
小峰城跡三重櫓・前御門(南東から)
指定種別 | 国指定 史跡 |
---|---|
指定年月日 |
平成22年8月5日 |
(追加指定) |
平成24年9月19日 令和3年3月26日 |
所在地 | 白河市郭内 |
所有者・管理者 | 白河市ほか |
JR白河駅の北方約500mに本丸が位置する。城郭は阿武隈川の南側に東西に延びる独立丘陵と、丘陵の南方に広がる段丘上を利用して築城されている。本丸の標高は370m、本丸と二之丸との比高は約15mである。
小峰城の成立は、「白河風土記」によれば、興国~正平年間(1340~1369)の頃、白河庄を治めていた結城宗広(ゆうきむねひろ)の嫡男親朝(ちかとも)(別家小峰家を興す)が築いたことに始まるとされる。
結城氏の本拠は、小峰城より東へ約3キロメートルの所に位置する白川城であったが、結城氏一族の内紛のあった永正年間(1504~1520)以降には、本拠が小峰城に移ったと推定されている。
天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原攻めに参陣しなかった結城氏は、秀吉の奥羽仕置で改易となり、以後37年間にわたり小峰城は会津の支城となる。蒲生氏郷(がもううじさと)、上杉景勝(うえすぎかげかつ)、蒲生秀行(がもうひでゆき)と領主が変わるなか、白河には城代が置かれた。蒲生秀行時代と考えられる慶長年間の城絵図を見ると、城郭や城下の整備も行われ、梯郭式平山城としての縄張りや城下の原型はできあがっていた。
寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重(にわながしげ)は、城郭の大改修を行った。およそ4年の歳月をかけて寛永9年(1632)に完成した姿は、本丸・二之丸を総石垣で固め、三之丸においても門周辺部には石垣積みとした梯郭式の平山城で、随所に石垣を多用した特徴がある。
城郭の全体形は、やや不整な五角形である。現在、外堀より内側の約540,000平方メートルが埋蔵文化財包蔵地、本丸・二之丸を中心とした約120,000平方メートルが史跡となっている。
丹羽家以降は、榊原、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)、阿部家など徳川親藩・譜代大名(7家21代)の居城となり、「奥州の抑え」としての役割を担ったが、慶応3年(1867)の阿部家の棚倉移封後は幕領となり、二本松藩(丹羽家)が管理した。そして、慶応4年(1868)の戊辰戦争白河口の戦いで焼失落城した。
明治以降、城郭はその多くが民間へ払い下げられた。本丸を中心とした範囲は、陸軍省の所管となり、のち明治26年(1893)に白河町に払い下げられた。
二之丸・三之丸の城郭遺構については、その多くが埋められ、農地や官公庁舎、住宅地として利用された。三之丸には、明治20年(1887)に東北本線が敷設され駅が設置されるなど、近代白河のまちへと変化を遂げる。
昭和50年代後半から、本丸・二之丸を中心に都市公園としての整備が開始され、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が、発掘調査の結果や文化5年(1808)成立の「白河城御櫓絵図」を基に木造で復元整備され、往時の姿をしのばせている。
地図を見る:小峰城跡
※別ウィンドウで地図が表示されます。
問い合わせ先
このページに関するお問い合わせは文化財課 文化財保護係です。
〒961-8602 福島県白河市八幡小路7-1
電話番号:0248-22-1111【内線 : 2852・2231】 ファックス番号:0248-24-1854
メールでのお問い合わせはこちら- 2024年4月10日
- 印刷する