南湖公園【なんここうえん】
南湖公園(東から)
南湖十七景詩歌碑
指定種別 | 国指定 史跡及び名勝 |
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指定年月日 |
大正13年12月9日 |
(追加指定) |
昭和59年6月18日 |
所在地 | 白河市南湖ほか |
所有者 | 白河市ほか |
白河藩主松平定信が庭園の手法を取り入れ、「士民共楽(武士も庶民も共に楽しむ)」の理念により築造した地で、中心を占める池沼は東西690m、南北370m、面積約177,000平方メートルの大きさがある。
この地はかつて「大沼」と呼ばれる低湿地で、17世紀中頃に白河藩主本多忠義(ほんだただよし)が「大沼土手」を築いた。その後修繕されず荒れはてていたが、享和元年(1801)に定信が大沼土手を利用した築堤工事(千世の堤と命名)と大沼の浚渫を実施した。
「南湖」という名称は、唐の詩人李白(りはく)が洞庭湖に遊んだ折に詠んだ「南湖秋水夜無煙」(なんこしゅうすいよるけむりなし)(『李太白文集』巻二十)からと、小峰城の南にあることから名付けられたといわれる。
定信は南湖の築造にあたり、西方の那須連山、東方の関山を遠景とし、周辺の丘陵や野原を近景として取り込むなど、自然地形を巧みに利用し、松・桜・楓を植樹して修景を行った。さらに、大名庭園などで見立てられる名所と同様に17の景勝地を選び、和・漢二つの名称を付し交流のあった大名や公家・儒学者に和歌や漢詩を求めた。これらの和歌と漢詩を一石に刻んだ歌碑(「十七景詩歌碑(南湖碑)」)が文政3年(1820)に建てられた(鏡の山南麓に現存)。
また、築造の経緯などは、藩校立教館教授広瀬典(ひろせてん)の文により「南湖開鑿碑(かいさくひ)」として文化元年(1804)に建てられている(月待山の麓に現存)。
多くの大名庭園が城内や邸内に築かれたのに対し、当初より囲いや塀を持たず「士民共楽」という理念によって広く庶民にも開放された点は、江戸時代にあって注目される事柄である。定信のこの理念は、祖父である八代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)が、花見の名所「飛鳥山」(東京都北区)を整備して庶民に開放した「衆楽(しゅうらく)」の思想に学んだものともされる。
南湖公園は、自然条件を生かしながら伝統的な庭園の手法も取り入れて修景しているという点で飛鳥山とは性格を異にし、日本庭園史上における「修景的な公園」として、近代の公園制度に先駆けた事例と位置づけられる。
なお、南湖の築造は天明の飢饉による困窮者の対策事業や湖水を利用した新田開発など様々な用途を兼ねており、新田の一部は「学田新田」と称され、収益が藩校の経営に充てられた。さらには当時増加していた異国船の来航に備え、藩士の操船・水泳訓練などにも活用されたという。
明治に入り公園制度の発足に伴い、明治13年(1880)に「南湖公園」として開設され、現在も四季折々の風情を楽しむ人々の共楽の地として親しまれている。
※ 南湖十七景詩歌碑(和歌・漢詩)の詳しい解説は下記をご覧下さい。
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- 南湖十七景詩歌(漢詩)解説PDF形式/259.18KB
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