市長の手控え帖 No.82「天皇陛下を育てた人」
今年の夏は暑かった。安全保障法案をめぐり熱い議論も交された。首相が村山談話を継承するのか、修正するのか、国内外で注目された。結果は、各方面に配慮したものになったが、無用な摩擦を起こさないのも、政治・外交の要諦だとすれば、無難な着地点だったと思う。
考えれば、70年間平和が続いたのは奇跡に近い。不戦への思い、冷戦下の奇妙な安定、米国の傘下にあったことがその要因であるにせよ、感謝すべき僥倖だった。とりわけ、国民の安寧を願う天皇皇后両陛下の喜びは、ひとしおと察せられる。今年4月、西太平洋ペリリュー島の慰霊式に出席された。戦没者碑に花を捧げ拝礼された後、お二人は海の方に歩まれた。群青色の海の先に見える島に向かい、深々と一礼。ここも玉砕の島だった。体調がすぐれない中での一泊二日の強行軍。宿泊は海上保安庁の巡視船だった。
近頃とみに、両陛下に対する敬愛の念が強まっているように思える。被災地への度重なる訪問と心暖まる励まし。全てのハンセン病院を訪れ、差別や偏見に苦しむ人に心を寄せ、水俣にも足を運ばれる。日本の文化・伝統の中心となる一方、ひたすら弱者の側に身を置こうとされている。自らを厳しく律し、無私の心で国中を走り回られるお姿に、自然と頭を垂れる。
今上天皇は終戦時12歳。天皇は国の統治者から、国民統合の象徴へと大きく変わる。新憲法のもと、皇太子の教育は極めて重要となる。大任を担ったのが小泉信三。経済学者で慶応義塾大学の前塾長。昭和21年、東宮教育参与に就任し、昭和41年世を去るまで誠心誠意務めた。
小泉に白羽の矢が立ったのは、優れた人格・見識に加え、「殿下の傍らには、不幸にあったことのある人がいい」との理由もあった。小泉は一人息子を戦争で亡くした。直後の手記には、あふれる愛情と張りさける悲しみが綴られている。自らも大空襲で命にかかわる大火傷を負い、顔に深い傷が残った。だが毅然とし、悠揚迫らぬ態度は大人物をうかがわせた。
小泉は、立憲君主制における天皇のあるべき姿を教えた。講義のテキストは二つ。ひとつは「ジョージ五世伝」。「この王は英雄でも天才でもない。その治政において花々しいことはほとんどない。いつしか国民は、王が位にあることに安らぎを覚えた」。“君臨すれども統治せず”がいかに難しいかを弁え、不偏不党、誠実に義務を遂行する英国王をモデルとした。
もうひとつは、福沢諭吉の「帝室論」。「皇室は、常に政治空間の外にいるべきである。政治は厳しいものであるが、皇室というものは、常に春のような、これを仰げば心がやわらぎ、あたたかさを感じられる中心であって欲しい」。
君主とは、責任と負担が多く、慰楽と休息は少ないもの。無私聡明な人格、党派の争いの外に立つことなど、水準の高い帝王学を授けた。進講は、張り詰めた雰囲気でなく、人柄を反映するように、悠々と穏やかなものだった。うちとけた食事や座談を通し、小泉イズムは浸透し、皇太子の思想や人格に大きな影響を及ぼした。
さて、小泉の大仕事が皇太子のご成婚だった。小泉は美智子様と軽井沢のテニスコートで出会う。美智子様の祖父とは旧知の仲。自身も慶応テニス部長であり、皇太子には門下生がコーチした。テニスも2人の仲立ちをした。美智子様は一流経済人の家の出で、美貌に恵まれ高い教養を備えていた。だが、「平民」出身のお妃を迎えるまでには、幾多の困難があった。小泉は献身的努力で克服していく。
ある時、美智子様に語りかけた。「私は殿下のお側にいて、長所も短所も承知している。ただ誰に対しても言えることは、誠実でおよそ軽薄から遠く、人を見る明があることである。殿下は私に言われた。自分は生まれと境遇から世情にうとく、人への思いやりに欠けるところがある。人情に通じ、思いやりの深い人に、助けてもらいたい」。美智子様は受け入れ、世紀のご成婚がなった。
小泉は模範的な君主にと、手塩にかけてきた殿下が、豊かな知と情を備えた淑女を、妃に迎えられたことに深く満足した。ジョージ五世に、賢くつつましい皇后あり。小泉は、美智子様にも皇后学を講じたといえる。国民から慕われ、尊敬される君主を育てることを通して、日本の将来を考えた小泉信三。父親代わりの福沢諭吉の理念を受け継ぎ、栄光と苦難の道を、スマートに歩いた人物の名を記憶にとどめたい。
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