市長の手控え帖 No.79「天城峠」
あの山の向こうには何がある、この道はどこに続く?子どもの頃から興味があった。とりわけ峠に憧れた。日本は峠の国。本県も山に隔てられている。御斎所峠・中山峠・土湯峠・甲子峠。峠を越え、浜から中、中から会津へ入る。
峠といえば天城。「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」。川端康成「伊豆の踊子」の書き出し。旧制高校の私は20歳。うっ屈した心を抱え、一人伊豆の旅に出る。修善寺で旅芸人に出会う。中に太鼓をさげ、豊かな髪を高く結った、大きな瞳の踊り子がいた。湯ヶ島では、宿へ流してきた踊り子を見た。
明日は峠あたりで追いつくのではと、胸がふくらむ。翌日、雨に追われ飛びこんだ峠の茶屋で一行は休んでいた。旅は道連れと下田まで同行することになる。楽しく語らい山路を行く。踊り子が連れの娘に、私のことを「いい人ね」と言うのが聞こえた。私の心は晴れた。
二人の心は近づく。踊り子の母は敏感。「物乞い旅芸人村に入るべからず」と差別されている。娘を近づけてはならない。最後の夜、私は踊り子を映画に誘うがこなかった。次の朝、桟橋に行くと、踊り子がじっとたたずむ。何も言わず、唇をかみしめている。船が沖合に離れると、白いものを振る踊り子が見える。私はわき目もはばからず泣いた。淡く清らかな恋は終わる。みずみずしさがきわだつ名作
「天城越え」という松本清張の短編がある。人の奥底に潜む黒い情念を描く。私は下田の鍛冶屋の息子で16歳。家業を嫌い、母の口の悪さにも閉口し、家を飛び出す。学生とは逆に峠を越え湯ヶ島・修善寺へ。私には、峠の向こうに自由な天地が広がっていると思えた。現実はそうはいかない。途中で一緒になる呉服商に「他人というものは恐ろしいから、十分用心した方がいい」と諭される。
隧道をぬけ湯ヶ島まできた時、法被を着た土工風の大男とすれ違う。恐ろしくなり戻る決心をする。すると、頭から手拭いをだらりとかぶった、赤い口紅に白粉の女が登ってくる。修善寺から足ぬけしてきた遊女。下田まで道連れすることになった。すぐに土工に追いつく。遊女が土工と立ち話になる。先に行くように言われるものの、心が残る。
土工が殺される。遊女が捕えられるが、証拠不十分で無罪。30数年後、静岡で印刷業を営む私のもとに老刑事が訪れる。「天城山土工殺人事件」を含む捜査資料の印刷の依頼だった。刑事は、私が現場にいたことは分かっていたが、疑いをはさまなかった。後で大きな誤りに気づく。老刑事は、私の仕業と知りつつ「真犯人が分かっても時効ですから…」。
何故殺害に及んだかはよく分からない。流しの土工に他国の恐ろしさを感じとったからか。遊女をとられたような思いからか。康成と清張。天城峠を舞台にした作品はかくも違う。
伊豆を南北に分ける天城山は険しい。隧道ができたのは1904年。全長445m。全て切石で造られたものとしては最長。康成が旅した2年前には、バスも走り、人・物の往来も盛んになった。国の重要文化財に指定された隧道は、今役割を終え、静かにたたずんでいる。
学生時代、下田の白浜で合宿した。現実離れした議論に疲れ、友人と天城を抜けようということになった。峠に着いたときの感動は忘れられない。数年前再び訪れた。幾重にも山が重なり、天城七里の頂きにある隧道は昔と変わらなかった。うす明かりの中、濡れた路面を歩いた。あの日と同じように風が吹き抜けた。
天城は唄になる。石川さゆりの「天城越え」。“つづら折り”の街道。心洗われる“浄蓮の滝”。小道を入った山あいにひっそりたつ“隠れ宿”。道沿いの斜面に広がる“わさび沢”。信州へ寒天用のテングサを運ぶ道にかかる“寒天橋”。いく筋もの「風の群れ」が隧道を通りすぎる。美しい情景が浮かぶ。古いところでは三浦洸一の「踊子」。“天城峠で会うた日は 絵のようにあでやかな 袖が雨に濡れていた。下田街道海を見て 目をあげた前髪の 小さな櫛も忘られぬ”
初めての土地にいくと、今も山の先、道の先に思いをはせる。山のあなたの空遠く、幸住むと人のいう…。カール・ブッセの詩がよぎる。峠はロマンをかきたてる。
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