市長の手控え帖 No.75「心の桃源郷」
中山義秀文学賞が今年で第20回を迎え、その節目を祝う催しが過日行われた。平成5年、旧大信村で義秀の功績を顕彰する文学館が開館。同じく、歴史時代小説を継承する作家の出現を期待し、文学賞は設けられた。
本文学賞には二つの特徴がある。まず歴史時代ものに限っていること。次に選考の仕方。応募作から有識者の審査を経て三作品に絞る。最終的に4人の著名な作家・評論家により公開の場で選考する。
そのやりとりは実に興味深い。時代考証がなっていない。緻密な表現力に欠ける。粗削りだが将来性を感じる。何年か前、後にベストセラーになり映画化された作品があった。その作品は、映像をみるようで分かりやすいが、文学性に乏しいとはねられた。審査委員と新進作家の真剣勝負の場で、会場に緊張感が漂う。
当初、この賞は作家の登龍門とされた。受賞者は、作家でやっていけるかどうか自信なかったがこれで覚悟が定まった。知識なら努力で埋められる。しかし、その先にあるものを埋められるか不安だったが、この賞が道を照らしてくれる灯りとなったと文学賞に感謝する。受賞を機に力をつけ直木賞を獲る作家も出ている。回を重ね今は「ピリリと辛口の格調高い」賞として評価が高まっている
義秀は、白河市大信下小屋で生まれ幼少を過ごす。いわき、二本松、郡山を転々とする。旧制安積中学から早稲田の文学部へ。ここで「師友」横光利一と出会い作家の道を志す。苦節16年芥川賞に選ばれ、野間文芸賞を得る。直木賞選考委員を20年務め、卓越した芸術家に与えられる日本芸術院賞の栄に輝く。
だがそこへの道のりは苦闘の連続。当時流行の左翼文学にはなじめない。若くして世に出た横光の才能に惹かれ、嫉妬する複雑な心情。結局、横光の新感覚派にも距離を置く。自分の文学を求めさまよう。さらに、子の死、妻の病と死、貧窮が襲う。暗闇を歩き続ける不安。酒に走り自棄の日々もあった。支えたのは、社会と格闘してきた父祖の血と荒ぶる魂。耐えながら心の内を見つめ、社会を見つめ、歴史を見つめた。ここから、時代に迎合しない、確固とした歴史的視点を持つ中山文学が生まれた。義秀は勝者より、自己の人生を生き切った敗者の悲哀に焦点をあてた。「生きている人間一人ひとりがそれぞれに人生の主役である」と。
義秀は幼な心に、定住できない生活に「渡り者」の寂しさを感じていた。これもあってか終生、故郷を懐かしんだ。「私の生まれ里を日籠屋敷というが、東から望めば入日がこの村の西の山に没するから、日籠の里と名づけられたのかもしれない。田野の果て、南山の裾を大川が流れている。隈戸川という」。情景がまざまざと浮かぶ。生地を世界で唯一の一番懐かしい天地、心やすらぐ桃源郷と記す。孤高の文士の心を癒したのは母なる山河だった。
全国市長会の企画で、地域にゆかりの作家の功績をたたえ、文化や都市の魅力の向上を目的に文学賞を創設している市長の座談会があった。宮沢賢治の花巻市、島崎藤村の小諸市、太宰治の三鷹市、そして中山義秀の白河市。わがまちの、文学者を誇りとし、その思想や精神をまちづくりや観光に結びつけようとしている。
前文化庁長官の近藤誠一さん。大震災の後小峰城の被災状況を視察された。その折、「当然文化財としての価値も大きいが、同時に城は白河市民の精神そのもの」と全面支援を約束してくださった。元はユネスコ大使やデンマーク大使を務めた外交官。外交の厳しさ重要性を知る人が、これからの外交には、軍事や経済以上に文化・芸術のソフトパワーが必要という。
文化はカルチャーの訳。カルチャーの語源は「耕す」。ここから心を耕すに通じ、文化へつながる。心を耕すことは、自分を耕し地域を耕すこと。文化はカネと暇のある人のぜいたく、との声もある。しかし、文化は心を豊かにし潤いを与えてくれる。感性が磨かれ、観光や新たな産業のヒントにもなる。自然観や繊細な美意識、人間観など先人の知恵を学べる。
私たちは近代化の旗のもと、物質的充足を優先するあまり、文化や芸術の力や日本の伝統文化を軽視してきたのではないか。義秀がたたえた「日本人の美しい情操」が失われようとしている。先月20人目の文学賞が決まった。今後とも、義秀の気高い心を受け継ぎ、数少ない地方発のこの文学賞を大事にし、文化の薫り高く誇れる白河にしたい。
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