市長の手控え帖 No.68「枯れる花にも水を」
見たくないものを見せられると後味が悪い。市民の審判を仰げば何でもできると、大義のない選挙に持ち込み、極めて低い投票率にも民意を得たと強弁する。誰もが選挙用と思っているのに、個人の借り入れと言い繕う。優れた資質と実行力が支持された人たちばかり。惜しまれるのは、何より大事な信義や信頼が欠けているように見えることだ。
大平正芳という政治家を思い起こす。野党の不信任案に自民党反主流派が賛成し、可決される異常な事が起きた。大平総理は解散を選択。史上初めての衆参同時選挙のさなか死去した。1980年6月のこと。慎み深い総理が、鬼気迫る形相で演説していたことが忘れられない。細い目、額の深いしわ、四角い顔。己を抑え、道を求める宗教家や哲学者の風貌。敬けんなクリスチャンで読書家。恥じらいやはにかみを持つ含羞の人だった。
「目立たぬように はしゃがぬように似合わぬことは無理をせず…」河島英五の歌う男の世界にぴったり。演説や答弁で「あー、うー」と前置きすることから、「アーウー」宰相と揶揄された。だが内容は論理的で含蓄があった。大平は頭の回転が速く指折りの知性派だった。ただ為政者の言葉の重さをわきまえていた。言葉に責任を持ち、より適切に表現しようとするから「アーウー」となった。
大平は自らを讃岐の貧農の子と称した。朝早く、田まわりしてから学校へ行った。社会に出てから、発起して大学へ。苦学の末に大蔵省へ進んだ。とはいえ秀才の集まり。ピカピカ光る存在ではなく、主に税務畑をこつこつと歩いた。
人の縁と運とは不思議なもの。池田勇人との出会いが運命を変えた。池田の部下になるが、この上司、口は悪いし大酒飲み。大病したこともあり、主流からは遠い場所にいた。ところが、戦後の公職追放で上層部が一掃され、事務次官に押し上げられた。さらに剛直さが吉田首相の目にとまり政界へ転ずる。大蔵大臣に命ぜられると、懐刀の秘書官に大平を指名。ほどなく政治の舞台にあがる。
保守本流の池田は総理になる。「所得倍増」で夢を与え、「寛容と忍耐」で安保闘争の亀裂を埋め、輝ける日本を演出した。振付したのは大平ら側近たち。大平は言う。「あなたは総理になるとは思わなかったはず。ならば、朝に組閣し、夕べに倒れても文句はないですね」。池田は直言してくれる大平に深い信頼を寄せ、大平は死にもの狂いで池田を支えた。
名参謀が首相の座に就く。政策の柱は財政、外交、地方。赤字国債を控え、財政安定を図るため消費税を提唱。「賢い人」は口にしない増税を、火だるま覚悟で訴えた。いずれ来る現実を見つめていた。
大平外交の評価は高い。隣人中国・韓国との改善に配慮し、特に鄧小平と交流を深めた。鄧は経済成長政策を大平に学び、改革開放の参考にした。一方日米同盟を強化するとともに、アジア太平洋の連携を呼びかけた。日本の安全保障を複眼的にとらえた。
大平は慈愛の目で故郷を見る。物質的繁栄を追い、すべてが東京へ吸い寄せられる姿を危ぐした。田園の活力が国の安定に欠かせないとし「地方の時代」を唱えた。自立した経済、支えあう家族、文化の香りは今求められている。
大平の盟友が伊東正義。旧満州で共に仕事をし肝胆相照らす仲となり、「俺の趣味は大平」と言った。伊東は会津の人で、会津・県南を地盤とした。もとは農林省の役人で次官まで昇った。腰に手ぬぐいをぶらさげ、筋が通らなければ大臣にももの申した硬骨漢。ある作家が、「田舎の中学校の校長先生のような顔」と評した。実直、清廉、頑固さで生涯を貫いた姿勢を表現したほめ言葉。その人格への信頼は群を抜いていた。
大平内閣が誕生し、外務大臣・官房長官として屋台骨を支える。党内抗争の中、無念にも大平は力尽きた。伊東は首相臨時代理になる。周囲は首相室に移るよう勧めるが入らない。閣議でも首相席に座らなかった。その名を強く印象付けた出来事がある。平成元年、リクルート事件で激震が走る。竹下総理は辞任し有力者は謹慎状態。視線はお金にきれいな伊東に注がれた。しかし「本の表紙を変えても中身を変えなければ駄目」と固辞。誰もが憧れる総理の椅子を未練なく蹴った。
大平正芳と伊東正義は似ている。土の臭いがし農魂の気質を感じる。激せず、臆せず、おもねらず。「低く暮らし高く思う」を実践した。政治の荒波にもまれながら、国家に身をささげ、「明日枯れる花にも水をやる」心根の優しい人だった。あの顔がなつかしい。
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