市長の手控え帖 No.60「谷文晁は何者!?」
先頃都内で生誕250周年を記念し、谷文晁展が開かれた。タイトルは「この絵師何者?」。文晁は江戸後期の大人気絵師である。正統の狩野派から出発し、中国や西洋の技法をとりいれ、折衷様式を大成させた。画域も山水画・人物画・風景画・仏画と広く、また驚くほど多くの作品を残している。しかし、歌麿や北斎のように、これぞ「文晁」という強い印象に欠ける。
祖父・父は御三卿のひとつ田安家に仕え、文晁も家臣となる。この縁で、当家に生まれ白河藩の養子となった、松平定信のお抱えとなる。経済的な安定に加え、絵や歌を愛する教養人定信と波長があう。画人として誠に恵まれた環境にあった。長屋暮らしで、貧窮のうちに大業をなした北斎との違いは際立つ。その人となりはどうか。御用絵師のお堅いイメージからはかなり遠いようだ。朝早くから超人的な早業で仕事をこなす。夜は吉原や料亭に繰り出す。大知識人から狂歌師・戯作者まで幅広い人脈を持つ。子ども・妻・妹も画人で、文晁を中心に「谷ブランド」をつくる。買い求める貴人や役者を自ら応接する。文晁と名のつく酒もあった。すべてを肥しにし、商才にもたけ、如才のない花形絵師だった。
自宅から富士山が見えたことから「写山楼」と称した塾には多くの門人が集まった。しかもここから著名な画家が生まれた。特に肖像画家としても、海外に国を閉ざす危さを憂えた警世家としても知られる渡辺崋山は、文晁の厚い愛情を受けた。文晁は優れた教育者でもあった。
文晁にとって定信との出会いは幸運だった。身内意識に加え、文化を愛する同好の士でもあった。定信の庇護のもと大輪の華が開く。特に定信は、古代からの文化財保存に熱心。命を受け、文晁は全国の古社や旧家に伝わる文化財を調査し、これを模写し腕をあげる。「集古十種」として残る。またこの頃は、外国船が交易を求め出没。定信は、海防のため相模・伊豆沿岸を巡視し、そこの地形を描くよう命ずる。地理図というより、遠近法や陰影法を駆使し、旅先のひとこまを活写した風景画の名作となった。「公余探勝図」である。
白河との関係も深い。文晁は少なくとも2回白河に足を運んでいる。小峰城の一角にアトリエ「小峰山房」を構え、三の丸内庭園や奥州紀行の折の松島などを描いている。白河といえばだるま。眉やひげに松竹梅、鶴亀が描かれ優しく上品な顔立ちは、いつ見てもほっとする。白河の繁栄を願う定信の命で、文晁がだるまの顔を描き手本に与えたことに由来するとされている。日本一縁起のいいだるまの恩人、文晁先生に感謝。
展示会に市内大統寺所蔵の「仏涅槃図」が出展された。1802年住職の依頼により描く。要した絵具や表具代は10両(100万円)余り、謝礼は2両(20万円)。大店の商家を主に60名程の信徒でまかなった。入滅した釈迦のまわりに、弟子をはじめ動物までが囲み嘆き悲しむ。ことに巨体をのけぞらし嘆く象や獅子が目をひく。中天にまっかな月が浮かんでいるのも印象的。仏画ではあるが、風景画としても十分鑑賞できる。
文晁の人脈は興味深い。「権力に近い」絵師としては、驚くほど多彩な人たちと交流している。特に目をひくのは、政治や社会を風刺する「権力から遠い」人物との交わり。機知のきいた言葉と巧みな絵で、お上を皮肉り笑いとばした山東京伝。「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」と寛政の改革を批判した大田南畝ら。京伝は手鎖の刑を受け、南畝は難を恐れ筆を折る。
文晁の立場にいれば、通常は彼らと距離を置く。しかし文晁は意に介さない。まず、保身の意識が薄い。仕事好き・人好き・好奇心旺盛な先生には、相手の立ち位置を頓着するような思考回路は、持ちあわせていないようだ。定信も「困ったやつよ」と思いながらも目をつむっていたのではないか。さらには、性格が極めて鷹揚。清濁あわせ呑むというより、来る者拒まず。誰であれ、共通のテーマで話が弾めば、我が良き友となる。また信じがたいことに、求められると自分の絵でなくても落款を認めた。写山楼では、文晁印が自由に拝借できる状況にあり、文晁作として売り捌く弟子もいたとか。当時から相当の偽物が出回っているといわれたのは、この辺に起因するのかもしれない。
展示会を担当したのは二人の女性学芸員。彼女らは、文晁をこう評する。多くの人との出会いで作風が変わり独自の流派をつくった。お堅いどころか、時代の先端をいくはじけた面白い人と。文晁先生は、一筋縄ではいかぬ懐の深い御仁のようだ。
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