市長の手控え帖 No.54「ある会津人の涙」
「八重の桜」がいい。八重の一途さと会津の悲劇に、綾瀬はるかの清楚な魅力も加わり、上々の滑り出しである。若い頃、会津にいた。今、会津史学会の会長としてご活躍の間島勲さんらと、戊辰の戦場や藩士の碑を見てまわった。その中に、日本初の政治小説といわれる「佳人之奇遇」の作者、東海散士こと柴四朗の碑があった。いたく感激するとともに、弟に柴五郎という陸軍大将まで昇った人がいることを知った。一般的には知られていないが、会津の生んだ最高の人格と言われている。
その頃、「ある明治人の記録~会津人柴五郎の遺書」が出された。むさぼるように読むうち、自然と涙がこぼれたことを覚えている。柴が幼年期から士官学校入学までを遺書にしたため、著者が整理した。1859年藩上士の家に生まれる。厳格ながらも、慈愛に満ちた両親・家族の中で幸せに過ごす。翌年3月伊井大老が桜田門外に散り、激動の時代を迎えた。会津は京都守護職に就き政治の表舞台へ。ここから、激流にもまれる小舟のごとく歴史に翻弄される。
孝明天皇の厚い信頼を受けていた忠臣が、一夜にして朝敵にされる。徳川本家に代わり、武力征伐の標的とされた。もとより朝廷に抗する気は毛頭なく、薩長の仕打ちに怒ったのは当然のこと。幼子にも家中に張りつめた空気は伝わる。いよいよ城下に敵が迫る。病に臥せる白虎隊一員の四朗は、母の命で身体をふらつかせ城へ。五郎は、叔母と泊まりがけで山菜狩りに行けと言われ喜んだ。これらは柴家を残し、子供を生かす方便だった。その間「女・子供が城にいては足手まとい」と母・祖母・兄嫁・姉妹は自害。五郎は、このことを思い出しては涙にくれた。
会津に下されたのは青森下北への移封。実質60万石から、1万石に満たない不毛の地へ。一藩流罪。悔しさをこらえ北に向かう。柴は「着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食に劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下20度の寒風に蓆を張り、生きながらえし辛酸の日々:」と記す。髪はぬけ落ち、高熱で生死をさまよった。
暗闇から一条の光がさした。ある縁で青森県庁の給仕に採用。さらに陸軍幼年学校への道が開け士官学校へ。とはいえ、軍では特定の出身者が幅をきかす。叩かれないよう、己を律し、慎重に振舞ったことだろう。いつしかその能力は誰しも認めるところとなり、加えて誠実で折り目正しい人柄は、会津のハンデを乗り越えた。
柴五郎の名声が高まったのは、1900年の北清事変。眠れる獅子に襲いかかる欧米。「義和団」という宗教的結社を核に、愛国排外の運動が中国全土へ広がる。あっという間に公使館が破壊される。追いつめられた各国は北京城へ籠もる。この後、援軍到着までの2か月間、総勢4千人で20万の猛攻に耐えた。
大混乱の中、終始冷静に対処し、連合軍のリーダーを果たしたのが柴中佐。英・仏・中国語を駆使し各軍を束ね、周辺の地理や敵情にも通じ、臨機応変に策をうった。勇将の下に弱卒なし。日本兵の規律と勇敢さは群を抜いた。イギリス公使は、「北京籠城の功績の半ばは、柴と配下の日本兵に帰す」と賞賛。凛とした会津人の行動が、日本への信頼を醸成し、2年後の日英同盟のきっかけをつくった。
柴は、この華々しい武勲にもかかわらず、「軍の一員として働いたまで」と功を語らなかった。誠に謙虚な人柄。師団長・台湾軍司令官を経て退役し、東京郊外に隠棲。著者が面談し、遺書の草稿について話したのは84歳の頃。白ひげに木綿の粗末なモンペ姿。ぽつぽつと語るうちに言葉がとぎれる。みると、老顔に石清水のような清らかな涙が流れている。落城、痛恨の別れをした母への思慕、北への流浪、溶かそうとして溶けない薩長への恨み。全てがまじりあい胸にあふれたか。
ときに大戦のさ中。柴は「この戦は負ける」と淋しげな面持ちで語る。鋭い目つきで、「近頃の軍人はすぐ鉄砲を撃ちたがる。国の運命を懸ける戦はそのようなものでない」と国を誤らせる軍人を批判した。昭和20年12月死去。柴は生涯をどう振り返っただろう。少年と晩年の敗戦。積み上げた石垣が、音を立てて崩れていく空しさの中で旅立った。哀れを誘う。が、先に待つ家族のもとにいける安らぎに包まれていたとも思う。
柴五郎や後の東京帝大総長、山川健次郎らは大きな不条理と、とてつもない逆境の中で、運命に立ち向かった。福島は大災害と原発に苦しめられている。しかし、柴らの生きた時代の制約と困難に比べたら、まだ自由だし、障がいも少ない。
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